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The Circus<スズ>
真一朗は、鉢植えの植物がたくさん置かれた待合スペースの、さっきまでスズを寝かせていたソファに腰を下ろした。低い木のテーブルの上にも、小さな陶器の鉢植えが置いてある。淡い黄緑色のその植物は、白い鉢の端から水が溢れ出すような形で、花のように葉を茂らせていた。テーブル下の物入れに、雑誌が重ねてあるのに気づいて、真一朗は暇潰しに覗き込んだ。ざっと見ても、建築、製菓、航空、科学、海洋学、医学などの専門誌に、画集、展覧会の図録までと、変に幅広い分野の本が、規則性なく積まれている。新聞も、西部・東部版に加えて、外国語のものも何紙か揃えてあった。患者に、外国人が多いのだろうか。
その中に1冊だけ、女性向けのファッション誌があった。真一朗は、背表紙を確認してすぐに、その雑誌を引っ張り出して、テーブルの上に置いた。
光の中で笑うスズが、印刷されている、その表紙。
永遠に、この柔らかな光と、時間の中に閉じ込められ、完結した、過去のスズが、そこにいた。今日の苦しみを知らず、真一朗ともまだ出会っていない頃の、彼が。
扉の開く音に、真一朗は顔を上げた。スズが処置を受けている部屋の、向かいのドアから、女性のナースが出てきた。トレイに、湯気の上がるコーヒーカップを載せている。
「お待たせ致しました」ナースは言って、雑誌の横に、カップを置いた。
「どうも、有難うございます」
「お口に合うといいんですけれど」ゆったりと、彼女は微笑んだ。膝丈の、白いナース服を着ているのが、やけに目に引っかかる。似合っていないわけではない。ただ、コスチュームプレイで身に着けている服のように、彼女の生活に馴染んでいない印象があった。病院の待合所に、コーヒーを運んでくる、その行動が、ナースらしくないと真一朗に思わせたのかもしれない。
トレイを持った指先も、あまりに奇麗に手入れされ、淡いグラデーションで塗られている。年齢の判らない、濃いめの化粧。片目だけが青く光る、彼女のバイ・アイを見ていると、一瞬、自分がどこで何をしているところなのか解らなくなるような、心もとない感覚に陥った。
真一朗はコーヒーに口をつける。酸味のきいた爽やかな味わいに、目の前が少しクリアになった心持ちがした。
「美味しいです」ソファの脇に立ったままのナースを仰いで、真一朗は言った。
「よかった」女は魅力的に微笑む。
「あの……、ここは、病院、なんですよね。人の出入りがないので、確信が持てなくて」
「当院は会員制の美容整形外科です。ご覧の通り、あまり繁盛はしておりません」
「美容整形……」想定の埒外の返答がきて、真一朗は思わず、繰り返した。
「ええ。お連れの方のように、先生を頼って来院される知己朋友もいらっしゃいます」
知己朋友。確かに、そうではあるのだろうが、いったい、どのような知り合いなのだろう。連絡先が書かれた手帳を、あんな場所に隠していたくらいだから、ザ・サーカスの仲間に、知られてはまずい人物ということか。もしくは、彼と関わりを持っていることの方を、隠そうとしているのか……。
それから30分もしないうちに、ミハルエ・ドワ医師が、サンダルを引きずるような騒々しい歩き方で近づいてきた。ナースはとうにいなくなっている。
「あいつの昨日の客って、あなたじゃないですよね?」不躾にそう言って、真一朗が座っているソファの左前方にある、1人掛けソファに腰を下ろした。ポケットから、タブレット状の駄菓子を取り出すと、2、3個まとめて口に放り込む。
「違います。俺は、彼の客ではありません」真一朗は答えた。眉間に勝手に皺が寄る。
「なら良かった。スズは麻酔で寝てます。あんまり頭痛が酷いときには、こうして寝に来るんですよ。いつものことです」
「あの……、麻酔中なら、ついてなくて、大丈夫、なんでしょうか」
「え? ああ、麻酔医はちゃんとしたのが別にいるんでね、そいつが面倒みてますよ、もちろん。心配性ですね、あなた」ミハルエは笑ったようだったが、頬まで髭に埋もれていて、その表情ははっきりとは判らなかった。
「さっき、いつものこと、と仰いましたけど、彼はいつも、あんな酷い状態で、ここへやって来るんですか?」
「いや、いつもなら自分で連絡入れて、自分の足で訪ねてきますよ。今日はあなたがいたから、甘えたんでしょう」
「甘えたって、……そんな、……」
「ああいや、アレですよ。もちろん、1人で来るいつもの方が、おかしいんですよ」ボリボリッ、と奥歯で菓子を砕く音がしたかと思うと、ミハルエは、また新しい数粒を口に放り込んでから、続ける。
「前に、奴がどのくらいの痛みを感じてるか、テストしたことあるんですけどね、私だったら、たぶんソッコーで泡噴いて白目剥いてるようなレベルですよ。あんなヒョロついた青二才のくせに、どんだけ肝据わってんだか」
「……あまり、詳しいことを訊くつもりはないんですが、彼は、つまり……酷い頭痛持ち、のような……?」
「まぁ、そうです」またすぐ菓子を噛み砕きながら、ミハルエは頷く。「あと1時間ちょっとで麻酔は止めますけど、それまでどうされます? ここで待たれても、一旦外に出られても構いませんけど、何ならヒアルロンでも注射しときますか?」
「傍に、ついています」真一朗は即答した。
「ああ、ええ……」さらに駄菓子を口に放り込もうとしていた手を止めて、ミハルエは、頷いた。
「別に構いませんよ。さっきの診察室の、ひとつ奥の部屋です。椅子とか、中にあるのを勝手に使ってください。もしなかったら、ここのを勝手に持って行ってもらって構わないので。本とかも、」改めて菓子を頬張りながら、ミハルエは横目で、テーブルの上に出された雑誌をちらりと見た。
「ありがとうございます」真一朗は言って、本は取らずに立ち上がった。さっきのナースが、ミハルエの私物なのだろう、蓋付きの大きな猫のマグカップと、もうひとつ、普通のマグカップをトレイに載せて、こちらへ近づいてきている。
「あら、おかわりをお持ちしましたのに」長い睫毛の隙間に、青い瞳をちらちらさせて、彼女は微笑んだ。「持っていかれません? お連れ様の病室で飲まれても結構ですよ」
「すみません、昼飯食いすぎて、さっきので丁度腹がいっぱいになってしまいました。よかったら、どうぞ、」
「ではお言葉に甘えて」ナースは、縁取りの濃い目も、赤い脣も、三日月のように撓めて、かわいらしく小首を傾げ、さっきまで真一朗が座っていた位置に腰掛けた。医者とナースは、仕事のやりとりを二言三言交わしたかと思うと、すぐに、近所に新しく出来た飲食店の話に移ったようだった。
真一朗は、廊下の左手、手前から2番目の引き戸を開けて、中に入った。部屋の真ん中に、スズが寝かされている。手術台や、一般病棟にありそうなパイプベッドではなく、セミダブルの立派な寝台だ。その頭側に機械類が多く置かれていることを除けば、入院病棟の個室のような雰囲気の部屋だった。
スズの頭の近くに座っていた眼鏡の男が、軽く目を細めて、真一朗を見た。何を言うでもなく、小さく、頷くような礼をする。真一朗も会釈をして、そのまま、部屋の隅に立った。
スズは、口から挿管され、上掛けに隠れて見えないが、腕は、点滴の管と繋がっているようだった。手術をしているわけではないのだが、その姿はやはり、痛々しいと、真一朗は思った。頬紅やリップでつくった魔法は解けて、蒼白い寝顔には、生気が感じられない。
さっき見た雑誌の表紙で笑っていた、ザ・サーカスのスター団員、《スズ》と、今、ここで眠っている青年が同じ人物だなんて、本当だろうか。
《スズ》と呼ばれる、《スズ》を自称する、かつて《レイト》だった、若者。
薬で痛みを忘れていられるこの時間だけは、肉体の苦痛からも、《スズ》からも、もしかしたら《レイト》からさえ、すっかり解放されて、自由でいられるのかもしれない。
溜まりきった疲れを癒すためには、体調を悪くする以外、彼には、方法がないのかも。
もし、そうであるなら、せめて今だけは、束の間の眠りの中で、彼が、安らかでありますように。
祈るような気持ちで、眠っているスズを見下ろしながら、真一朗は、自分の中に生まれた、新しい目が開くような感覚に、気づかずにはいられなかった。
もっと、この人のことを、理解したい。
作家としての興味ではない。その先の対価を期待しての触れ合いでもない。
ただ、知りたいと、思った。
《スズ》であり、《レイト》でもあるはずの、ひとりの人間のことを。