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The Circus<スズ>

 スズが、あの事件のことで見る悪夢は、暴力そのものではないことの方が多かった。ひとりぽっちでベッドに寝ていると、クノがやってきて、「おまえはもう、仕事ができる体じゃなくなった」と告げ、背を向けて去っていく。ほとんど、そういうパターンの、じっとりとした冷や汗をかくような夢ばかり見た。

 今日も、ひとりぽっちのベッドで目が覚める。

 真っ白い部屋の、真っ白いベッド。

 夢だ。また、あの夢。

 夢の中でそう思う。

 けれど、やってきたのは、真一朗だった。

 真一朗は、心配そうにこちらを見ているだけで、何も言わない。

 ただ、じっと見ている。

 心配しているけれど、どこか、冷静に観察するようでもある視線。少し、居心地の悪いような。だけど、不快ではない。不思議に馴染みのある、見られているとちょっとだけ安心できる、目。

 誰かに呼ばれた気がして目を開けると、真一朗が、夢の中と同じ目で、こちらを見ていた。おかしいな。まだ、夢の中にいるんだろうか。スズは目を動かして、周囲を見る。顔見知りの麻酔医、天井、壁、壁際に立っている、真一朗。焦点がすぐに合わなくなって、真一朗の姿がぼやける。

 ――嫌だ。

「しん、……、」

 喉が変だ。声がうまく出ない。視界がぼやけて、脳がふやけてるみたいで、真一朗がそこにいると、確信が持てない。嫌だ。

「しん……ち、……ぉ……」

 手を伸ばそうとするのに、動かない。真一朗。いるなら、こっちに来い。来て。真一朗。

「舌噛むから、まだ喋んない方がいい」

 真一朗の声が、すぐ傍でするのに、もう、目が開けられない。

「し……ちろ、……ここ、……いて……」

「大丈夫。ちゃんと傍にいる。帰りもちゃんと送っていくから、大丈夫だよ。安心して」

「……ひとり……しな……で……」

「しないよ、大丈夫だから。ゆっくり休んで」

 ああ、よかった。

 気持ちがいい。どこも痛くない。体がふわふわして、眠くて、世界が淡い、滲んだ、美しい色に輝いている。

 真一朗の声が、温もりが、傍にある。

 安心だ。

 安全だ。

 ここは、今は……。


     ★


「ちょっと、いいですかね、」

 真一朗は、真後ろから掛けられた声に愕いて、首をめぐらせた。いつの間にか、ミハルエ・ドワ医師が、部屋に入ってきている。麻酔医に起こされて目を覚ましたスズが、再び寝入ってから、すぐのことだった。

「彼の病状について、やっぱり少し、話しておきたいことがあるんです」

「あ……、いや、……というか、彼、大丈夫でしょうか? 一度起こされて、またすぐ、眠ってしまったんですけど……」

 ミハルエは麻酔医の方に視線を遣ってから、「呼吸も脈拍も正常みたいですし、問題ありませんよ。すっきり起きられるときも、ボーっとした状態が暫く続くときもあるんで……あーでも、仕事の時間、大丈夫かな。その分じゃ、意識はっきりするまで、もしかしたらもう2、3時間かかるかも。痛み止め、結構強烈なの入れてるんでね」

 真一朗は、いったん部屋を出て、ザ・サーカスに連絡を取った。応対した団長のイチカの、長話になりそうなおしゃべりをなるべく短く切り上げて、病室に戻る。

「時間は大丈夫みたいです。今日、彼、休みだったみたいで」

「ああ、だから気ィ緩んだんだな」

 真一朗は、曖昧に頷いた。スズの口からはっきり聞いたわけではなかったが、何となく、彼は今夜の仕事のことを考えて行動していたように思えたからだ。しかし確信があるわけではないので、ミハルエの言うことも否定はできない。

「で、話なんですが、」

「俺は彼の身内ではありませんし、あまり、立ち入ったことは……」真一朗は、眠ったスズを一瞥して、声を低くした。

「では、さっきのスズの言葉は、どういう意味だったんでしょう。あなたの名を呼んで、傍にいて、だなんて、かなり、親密な間柄なのでは?」

「いや、……あれはたぶん、意識が朦朧としていて、誰かと勘違いを……」

「何度もあなたの名前を呼んでいたのに?」ミハルエは鼻から勢いよく息を抜いた。「スズはね、私という秘密のかかりつけ医の存在を、誰にも打ち明けていなかったはずですよ。ここに来るようになった3年前から、今までずっと、家族同然の同僚にも、親友にも、内緒にしていた。誰かと一緒に来たのは、今回が初めてです」

「……確かに、店の誰にも、体調不良を知られたくないと言っていました。俺は彼の家族でも、仕事の関係者でも、ましてや親友なんかでもない。関係性が希薄だから、逆にこういうとき頼りやすい、ということはあるでしょう?」

「それなら尚のこと、あなたに知っておいてもらいたい。私は、あなたがスズの恋人だろうが、ストーカーだろうが、親の仇だろうが、そんなのはどうだっていい。スズが困ったときに頼れるのは、現在、あなただけだという事実。そのことだけが、重要です」

「……ずるい、言い方をしますね」真一朗は、微かに眉を顰める。

「話を聞いてもらえますね?」

「……わかりました」

 ミハルエは、廊下に出る方ではない、診察室に繋がるアコーディオンカーテンを開いて、中に真一朗を招いた。最初にスズを運んだ部屋だ。

「そこどうぞ、」と示されたのは、診察用の回転椅子だった。ミハルエも、パソコンのあるテーブル前の椅子に掛ける。まさしくこれから問診がはじまるような格好だった。

「はっきり言って、今のスズは、ギリギリの状態です」ミハルエは、手癖のような動きでパソコンのスリープ状態を解除して、言った。「《ザ・サーカスのスズ》としての生命は、ほとんど、風前の灯だと言ってもいい」

「そこまで、体を悪くしているんですか……?」

「いや、そもそもの体に、問題がありましてね」

 真一朗は、自分の踏み込んでいい限界のラインを見極めるように、目を細める。

「あいつは、過去に受けた暴力のために、度重なる手術を受けている。どれも、男娼としての肉体の耐用年数を引き延ばすための手術です」ミハルエは言って、おそらくは、スズのカルテを画面に映した。真一朗はそちらを見ないように、髭の医者の頬にほんの数本混じった、白い毛を目で数える。

「次にその手術を受けるような事態になれば、奴はもう、現在のような健常な生活を送れなくなる可能性が高い」

 真一朗は、短く息をのむ。

「もちろん、よっぽどのことがなければ、そんなことにはなりません。が……、よっぽどのことが明日起こってもおかしくないのが、今の、奴の仕事です」

「……あなたは、彼を、引退させるべきだと……?」

「体のことだけを考えるなら、その方が賢明でしょうな」

「でしたら、私などに話すより、彼に直接……」

「殺害を目的とした輪姦、だったようです」ミハルエは、真一朗の言葉を、その言葉で遮った。「スズが、手術を繰り返さなければならなくなった、原因の事件です」

 真一朗は表情を変えなかった。ただ、その瞳孔だけが大きく開いている。

「デビュー直前、10歳になったばかりの頃の話だそうです。本人が、仕事への復帰を強く希望したため、当時の最新鋭の治療――というか、まだ治験段階だった技術で、損傷した筋肉や内臓を補い、仕事により適した形に、創造的な再建手術を実施した。……もちろん私も、後でスズに聞いた話ですが」

「どうして……」真一朗はほとんど口の中だけで呟く。どうして、ザ・サーカスの、レイトの周りにいた大人たちは、子供の望みを、そのまま叶えたのだろう。彼の体にかかる負担のことも、知っていたはずなのに。

「どうしても、どんなことになっても、ザ・サーカスの正団員にならなきゃならん理由が、何か、あったんでしょうな」ミハルエは、右手で左の頬の毛をちょっと掻いて、腕組みをした。「そこまでの覚悟で働いてる人間が、私を頼って、束の間の休息に訪れているわけです。私に、何が言えます? 自分の体が壊れる寸前なのを知っていて、それでもザ・サーカスのスターであり続けようとしている、立派な男に」

 それは、立派なこと、なんだろうか。

 真一朗はそう思ったが、同時に、はっきりと、悟った。自分が、スズの何に惹きつけられたのか。

 美しい容姿、客を第一に行動する鮮やかな手腕、多少大人びてはいるが、若者らしさもないわけではない、普段の、飾らない表情。

 その奥に、真一朗が見ていたのは、レイトという人間の、魂の、輝きだった。

 自分に与えられた運命の中で、もがきながらも、視線は上に向いている。誰にも奪えぬ強さを秘めた、ひとりの人間の、生き様。かつて、真一朗はそれを、すゞ弥の中に見た。紅の中にも。深果にも、それを感じたから、客の領分を踏み越える寸前のところまで、彼を守ろうとしてしまったのだろう。

 もがき苦しむ人間にばかり惹かれるだなんて、嗜虐趣味みたいで、自分でも気味が悪い。けれど、真一朗が好きになるのはいつも、そういう人間だ。心が強すぎるせいで、傷つきながら生きている人に、魅力を感じてしまう。そうして、できれば、彼らの助けになりたいと、思ってしまう。すゞ弥のときも、紅のときも、もしかしたら、弓助や、これまでの恋人たちにだって――彼らの人生を助けることなど、ただの一度だって、できた試しはないというのに。

 できるわけがない。

 ボロボロに傷ついていたって、彼らは強い。強くあろうと、前を向いている。手助けを必要としていない人間を、助けることはできない。たとえ傍目からは助けたように見えた瞬間があったとしても、本当の意味で、彼らの助けになることはない。

 だから、ただ、見守るだけ。

 ただ、見送るだけ。

 それだけだった。

 この医者のように、幼いレイトの望みを叶えた、彼の保護者たちのように。強い者の強さに憧れ、信じ、彼らの強さを尊重することが、自分に出来る全てだと思っていた。

 ……これまでは。

 真一朗は、鼻から深く息を吸い、膝の上の拳を強く、握りこんだ。


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