19

The Circus<スズ>

 スズは目を開けた。

 今日、目が覚めるのは、いったい何度目だろう。何度か失敗して、ようやく生き返ることができたかのような、爽やかな疲れを感じた。

 頭痛も、眩暈もない、当たり前の世界が、輝いて見える。

「おはよう、レイト」

 スズは声の方に顔を向ける。

 真一朗は微笑んでいる。

 夢の中では、ずっと、心配そうな顔でこっちを見ていたのに、今は、ほっとしたような顔で笑っていた。

「……んいちろ……」

「おう、スズ、起きたか?」

 真一朗ではない、でっかい声が聞こえる。ベッドの傍らの椅子に腰掛けた真一朗の後ろから、思った通りの髭面が、顔を覗かせた。

「起きた……」掠れ声で答えて、スズは片手を挙げる。

「痛みは?」ミハルエは、真一朗とは逆側にまわってきた。点滴の袋を確認するようにちょっと触る。

「全然」スズはごく軽く、頭を横に振ったが、そのせいで眩暈が起こることもなかった。

「もう暫く休んでから帰れ。せっかく仕事ないんだし、伊木センセイも時間大丈夫だそうだから」ミハルエは、それだけ言うとすぐに踵を返した。

「じゃ、帰るときは一応声掛けてください」真一朗に向かってそう言い、カーテンの向こうの部屋に消える。

「……仕事……」スズは呟いた。急激に頭が立ち上がる。そうだ、仕事。「いま何時、」

「やっぱり」真一朗は笑って、「大丈夫だよ」と言った。

「え、……」スズは眉を寄せて真一朗を見上げる。

「さっき団長さんに確認したら、来週の今日とスケジュール入れ替わりになったって言ってたよ。今朝、おまえには電話で伝えたって話だったけど、具合悪くて覚えてなかったんじゃないか?」

「え…………あぁ…………そう、……だっけ……」

 そう言われて、思い返してみれば、今朝、客が帰っていった後で、何かそんなことを電話でやりとりしたような覚えが、なくもなかった。来週の同じ日。は……、確か、公休日だ。つまり、今日は、休みということ。

「…………てか、イチカさんに、何て……」

「おたくのスターがすっかり寝入っちゃってるんだけど、今日の仕事は何時からですか、って」

「そっか、……それなら……」

「でも、おまえと深い仲になったって、誤解されたかもしれない」

「いや、それはいいんだ。……悪い、ありがと……」スズはひとつ息を吐いた。

 窓のない室内は、白々とした灯りに満たされている。頭の中まで白一色になりそうな、白さ。

 沈黙。

 部屋の外で、男と女が喋っている声がする。何を言っているかまで、はっきりと聞こえるわけではない、人声。

 室内は、沈黙。

 何時だろう。どこからか、秒針の鳴る音が聞こえてくるのに、壁に時計は見当たらない。

 スズは、改めて、ベッドの傍らの真一朗を、見上げてみた。

 高く、真っ直ぐな鼻梁。二皮目には、どこか、犬ころのような愛嬌もある。厚めの脣。男っぽい、頬と顎のライン。一文字眉。まるで、ハイブランドのモデルみたいな造形だ。実際、若い頃はそんな仕事をしていたというから、とても気の利いた例えとは言えない。頭が回っていない証拠だと、スズは思う。

 真一朗の顔は、何となく、スズを、居心地悪くさせる。ザ・サーカスの団員には、もっと特徴のある、その人間特有の美しさを持つ顔が多いから、真一朗のような、誰にでも通用するタイプの美形には、無意識の警戒心が働いてしまうのだろう。単純な、見慣れないものに対する反応だ。

 真一朗は、相変わらず何も言わず、スズを見つめているばかりだった。

 スズも、ただ、真一朗の顔を見上げていた。

 瞬きを、何度した頃だろう。真一朗の脣が、僅かに開きかける。それからまた、沈黙。

「……真一朗……?」

 スズの呼びかけに、真一朗は軽く目を伏せ、息を吸い込んだようだった。もう一度、スズをじっと見る。

「レイト、おまえ……、自分の体のこと、自分で、解ってるんだよな……?」

 スズは目を瞠った。自然に、目線は、隣の診察室との仕切りになった、アコーディオンカーテンの方へ行く。

「……喋ったのか、あいつ……」

「おまえを心配してのことだ」

「…………そうだろうけど……」スズは、左半身を下にして、真一朗に背を向けた。「……全部、聞いた? 昔のこととか……」

「……たぶん」

「…………失望したろ、」

「何に?」

「取材するような価値のある人間じゃなかった、ってさ」

「……俺は、おまえが完璧なスターだから、惹かれたわけじゃないよ」

 そしてまた、沈黙。

 空気の僅かな揺らぎが、目に見える気がするほど繊細に、時間が流れる。

「……何だったっけ……」スズはまた、ゆっくりと、仰向けの姿勢に戻った。額の上に、点滴と繋がっていない方の手を載せる。

「……ん?」

「俺とアンタが出会ったら、天変地異が起きて、弓助がハゲるんだっけ……」

「残念ながら、あいつの毛根は呪いに負けなかったらしい」

 スズは、薄く笑った。「……俺、アンタのこと、嫌いだったよ」

「そんな気はしてた」真一朗も、苦笑する。

「紅を苛めた悪い客、ってイメージだったから」

「違いない」

「紅を、好きだった?」

「……好きだったよ」

「あいつが、弓助に惚れてるって、知ってても?」スズは言って、額に載せた手の陰から、真一朗を見た。

「仕方ないだろ、片恋は」真一朗は、笑った形にした脣から、ふっと、息を吐き出した。「それに俺は、弓助を好きになるような人間が、好きなんだ。……多分な。何せ紅の前にだって、あいつのお陰で、何べんも失恋してんだから」

「それって、実は弓助に恋してんじゃないの?」

「アァ?」真一朗は、貝の中の砂を噛んだような顔をした。「冗談でもキツイぜ、それ」


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