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The Circus<スズ>

 スズは少しの間、くすくす笑いながら、目を閉じていた。ゆっくり瞼を持ち上げて、再び真一朗を見る。

「昨日の、水車のとこ……」

「うん」

「あそこ、よかったな……」少し掠れた声で、スズは呟く。思い出すだけで、いい気分になれた。水のにおいと、額を撫でる風と、真一朗の、肘から先の影の形。今からでも、あそこにもう一度行って、昼寝をしたい気分になる。

「元気になったら、また乗せてくよ」真一朗は言った。

「もうそのくらいの元気ならあるよ。病人じゃないんだから」

「よく言う」真一朗は、眉を上下させる。

「あ、……いや、ごめん。迷惑掛けたって自覚はあるし、ちゃんと、今回のお礼はするから、」

「だから、そんなこと気にしなくていいんだって」

「俺がしたいんだから、真一朗のためじゃない」スズは言って、脣をきゅっと結ぶ。

「それ、矛盾してないか」真一朗は半笑いで言った。

「……してるな」スズも緩く笑った。「頭、回ってないんだよ、まだ……」

「あ、でも、それなら一つ、気になってることあるんだけど、訊いていいか?」

「うん」

「おまえと同じ階に部屋持ってる、アヤ……だっけ? 白い頭の、」

「綾(りん)のこと?」

「ああそう、リンだ。この前、エレベーターのところで鉢合わせたんだけど、そのとき着てたシャツの仕立てが、どうにも気になって」

「シャツって、どんな?」

「普通の、綿のドレスシャツなんだけど、形が奇麗でさ。でも、俺が知ってる限りのどの店の仕立てとも違った気がして、よければ、店を紹介してもらえないかな、って思ってたんだけど」

「綾なら、《山奥のテーラー》って呼んでるとこの、誂えものじゃないかな、たぶん」

「《山奥のテーラー》? それが屋号なのか?」

「俺も詳しくは知らないけど、何か、偏屈な知り合いが趣味で作ってるんだって、前に言ってたような……」

「趣味。……なら、新規の客なんて、お呼びじゃないかもなぁ……」真一朗はそう言って、あからさまに肩を落とした。その、彼にしては珍しい、子供みたいな態度に、スズは思わず零れそうになった笑いを飲み込む。

「いや、趣味って言っても、実益を兼ねた趣味、って意味かもしれないし、帰ったら、俺から綾に頼んでみるから、」スズはそう言いながら腕を伸ばして、真一朗のスーツの腕を、力づけるように何度も叩いた。

 項垂れていた真一朗が、顔を上げる。

「ありがとう、レイト」

 見上げる位置にある、あまり好みではないはずの、整ったその顔が、柔らかく、くしゃりと崩れる。

 スズの胸の奥に、引き攣れるような動揺が起こった。

 ずっとずっと昔からそこにあったのに、すっかり苔むし、蔦に覆われ、すっかり風景の一部と化していた、何か。それは例えば、井戸の石蓋か、石臼のようなもの。存在さえ忘れ去られて、スズの中に静かに眠っていた、重たい何かが、ほんの微かにだけ動いて、自分が息をしていることを、知らせようとした。そのことへの、動揺だった。

 スズは、その気づきから目を背けるように、真一朗の腕に触っていた手を退く。

「つっても、こんなんじゃ、今回掛けた迷惑の礼にはならないな……」平静を保って、スズは言った。

「俺のリクエストなんだから、これでいいだろ」

「俺が駄目って思ったら、駄目なの」

「頑固者」

 スズは口の端を吊り上げた。真一朗の方に体を向けて、手枕をする。「なぁ、服以外に、何が好き?」

「世界平和かなぁ」

「もっと個人に属することで」とぼけた真一朗の返しに、スズは眉を顰める。「例えば、好きな食いもんとか、アルコールの好みは? 音楽は聴く? 芸術方面は? あ、果物とか……、スポーツは観る? やる方が好き? 映画は? 家電とか家具とかは、結構こだわってそうな気がするな、あと……」

「そんな一気に訊かれても覚えられないって。弓助じゃあるまいし」

「また弓助の話してる」スズは悪戯っぽく笑った。

「……違うからな、」真一朗はスズに念を押すように顔を近づける。

「あ、」スズは、視線を真一朗の頭の辺りに向けて、手招きした。「ちょっと、もうちょっと、頭下げて、」

「こうか?」

「もうちょい」

 真一朗はシーツに額がつくすれすれまで、上体を屈めた。頭の左寄りの天辺に、軽く指先が触れる。

「取れた」スズの声に、真一朗は姿勢を戻した。笑った顔のスズは、緑色の靄みたいなものを、指先で摘んでいる。「多分、俺の毛布の綿埃だ」

「ああ、ありがとう」

「……ごめん」スズは一瞬、目を潤ませ、空気の洩れるような声で、そう言ったようだった。しかしすぐに、「頭に埃なんて乗っけてたら、せっかく格好よくキメてんのが台無しだよな」などと茶化して笑い、深刻な表情はそれっきり、引っ込んでしまった。

 点滴が終わると、スズは起き上がって、慣れた様子で自分でさっさと針を抜いた。後処理をしながら、「いま何時か判る?」と訊ねる。

 真一朗は左腕の時計を見た。「5時19分」

「そんなに、」スズの目が大きくなる。

「すぐ帰る?」

「あぁ……、うん、……」煮え切らない返事をしながら、スズは腰を左右に捻る動きをする。真一朗にまで聞こえる音が鳴った。「い、ってて……」

「ずっと寝てたからな。まだきついなら、暫く休んでからでもいいんじゃないか、」

「けど、アンタもずっと付き合わせてるし……」

「俺はいいんだって。どうせ暇なんだ」

「そう? テレビの仕事とかはないの?」

「それは波あるから。本出すときに販促で出ることが多いな」

「出ると出ないじゃ、売り上げってやっぱ違う?」

「どうなんだろ。あんま変わんないんじゃないかな……てか、レイト、」

「うん?」

「もしかして、帰りづらい?」

「……わかる?」

「何となく」真一朗は笑う。

 スズは膝を抱えて、空いている方の手で、髪を整えはじめた。「ここから帰るときって、いつもそうなんだけど……、何か、悪いことした子供みたいな気分になるんだよな」

「なら、うち、寄っていくか?」

「え、」

「いや、よかったら、だけど。多分、団長さんも、おまえは今、うちに居るものと思ってるだろうし、どこか外でワンクッション置くよりは、人目も気にならないかと思って」

「本当に、いいの?」

「もちろん」

 ホッと、スズは息を吐いた。

「……よかった。ちょっと、……いや、だいぶ、気が楽になった」

 そう言って、スズは、冬の雲間から射す陽のように、微笑んだ。

 これから空が晴れる、その先触れのような笑顔に、真一朗は見とれた。


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