20
The Circus<スズ>
スズは少しの間、くすくす笑いながら、目を閉じていた。ゆっくり瞼を持ち上げて、再び真一朗を見る。「昨日の、水車のとこ……」
「うん」
「あそこ、よかったな……」少し掠れた声で、スズは呟く。思い出すだけで、いい気分になれた。水のにおいと、額を撫でる風と、真一朗の、肘から先の影の形。今からでも、あそこにもう一度行って、昼寝をしたい気分になる。
「元気になったら、また乗せてくよ」真一朗は言った。
「もうそのくらいの元気ならあるよ。病人じゃないんだから」
「よく言う」真一朗は、眉を上下させる。
「あ、……いや、ごめん。迷惑掛けたって自覚はあるし、ちゃんと、今回のお礼はするから、」
「だから、そんなこと気にしなくていいんだって」
「俺がしたいんだから、真一朗のためじゃない」スズは言って、脣をきゅっと結ぶ。
「それ、矛盾してないか」真一朗は半笑いで言った。
「……してるな」スズも緩く笑った。「頭、回ってないんだよ、まだ……」
「あ、でも、それなら一つ、気になってることあるんだけど、訊いていいか?」
「うん」
「おまえと同じ階に部屋持ってる、アヤ……だっけ? 白い頭の、」
「綾(りん)のこと?」
「ああそう、リンだ。この前、エレベーターのところで鉢合わせたんだけど、そのとき着てたシャツの仕立てが、どうにも気になって」
「シャツって、どんな?」
「普通の、綿のドレスシャツなんだけど、形が奇麗でさ。でも、俺が知ってる限りのどの店の仕立てとも違った気がして、よければ、店を紹介してもらえないかな、って思ってたんだけど」
「綾なら、《山奥のテーラー》って呼んでるとこの、誂えものじゃないかな、たぶん」
「《山奥のテーラー》? それが屋号なのか?」
「俺も詳しくは知らないけど、何か、偏屈な知り合いが趣味で作ってるんだって、前に言ってたような……」
「趣味。……なら、新規の客なんて、お呼びじゃないかもなぁ……」真一朗はそう言って、あからさまに肩を落とした。その、彼にしては珍しい、子供みたいな態度に、スズは思わず零れそうになった笑いを飲み込む。
「いや、趣味って言っても、実益を兼ねた趣味、って意味かもしれないし、帰ったら、俺から綾に頼んでみるから、」スズはそう言いながら腕を伸ばして、真一朗のスーツの腕を、力づけるように何度も叩いた。
項垂れていた真一朗が、顔を上げる。
「ありがとう、レイト」
見上げる位置にある、あまり好みではないはずの、整ったその顔が、柔らかく、くしゃりと崩れる。
スズの胸の奥に、引き攣れるような動揺が起こった。
ずっとずっと昔からそこにあったのに、すっかり苔むし、蔦に覆われ、すっかり風景の一部と化していた、何か。それは例えば、井戸の石蓋か、石臼のようなもの。存在さえ忘れ去られて、スズの中に静かに眠っていた、重たい何かが、ほんの微かにだけ動いて、自分が息をしていることを、知らせようとした。そのことへの、動揺だった。
スズは、その気づきから目を背けるように、真一朗の腕に触っていた手を退く。
「つっても、こんなんじゃ、今回掛けた迷惑の礼にはならないな……」平静を保って、スズは言った。
「俺のリクエストなんだから、これでいいだろ」
「俺が駄目って思ったら、駄目なの」
「頑固者」
スズは口の端を吊り上げた。真一朗の方に体を向けて、手枕をする。「なぁ、服以外に、何が好き?」
「世界平和かなぁ」
「もっと個人に属することで」とぼけた真一朗の返しに、スズは眉を顰める。「例えば、好きな食いもんとか、アルコールの好みは? 音楽は聴く? 芸術方面は? あ、果物とか……、スポーツは観る? やる方が好き? 映画は? 家電とか家具とかは、結構こだわってそうな気がするな、あと……」
「そんな一気に訊かれても覚えられないって。弓助じゃあるまいし」
「また弓助の話してる」スズは悪戯っぽく笑った。
「……違うからな、」真一朗はスズに念を押すように顔を近づける。
「あ、」スズは、視線を真一朗の頭の辺りに向けて、手招きした。「ちょっと、もうちょっと、頭下げて、」
「こうか?」
「もうちょい」
真一朗はシーツに額がつくすれすれまで、上体を屈めた。頭の左寄りの天辺に、軽く指先が触れる。
「取れた」スズの声に、真一朗は姿勢を戻した。笑った顔のスズは、緑色の靄みたいなものを、指先で摘んでいる。「多分、俺の毛布の綿埃だ」
「ああ、ありがとう」
「……ごめん」スズは一瞬、目を潤ませ、空気の洩れるような声で、そう言ったようだった。しかしすぐに、「頭に埃なんて乗っけてたら、せっかく格好よくキメてんのが台無しだよな」などと茶化して笑い、深刻な表情はそれっきり、引っ込んでしまった。
点滴が終わると、スズは起き上がって、慣れた様子で自分でさっさと針を抜いた。後処理をしながら、「いま何時か判る?」と訊ねる。
真一朗は左腕の時計を見た。「5時19分」
「そんなに、」スズの目が大きくなる。
「すぐ帰る?」
「あぁ……、うん、……」煮え切らない返事をしながら、スズは腰を左右に捻る動きをする。真一朗にまで聞こえる音が鳴った。「い、ってて……」
「ずっと寝てたからな。まだきついなら、暫く休んでからでもいいんじゃないか、」
「けど、アンタもずっと付き合わせてるし……」
「俺はいいんだって。どうせ暇なんだ」
「そう? テレビの仕事とかはないの?」
「それは波あるから。本出すときに販促で出ることが多いな」
「出ると出ないじゃ、売り上げってやっぱ違う?」
「どうなんだろ。あんま変わんないんじゃないかな……てか、レイト、」
「うん?」
「もしかして、帰りづらい?」
「……わかる?」
「何となく」真一朗は笑う。
スズは膝を抱えて、空いている方の手で、髪を整えはじめた。「ここから帰るときって、いつもそうなんだけど……、何か、悪いことした子供みたいな気分になるんだよな」
「なら、うち、寄っていくか?」
「え、」
「いや、よかったら、だけど。多分、団長さんも、おまえは今、うちに居るものと思ってるだろうし、どこか外でワンクッション置くよりは、人目も気にならないかと思って」
「本当に、いいの?」
「もちろん」
ホッと、スズは息を吐いた。
「……よかった。ちょっと、……いや、だいぶ、気が楽になった」
そう言って、スズは、冬の雲間から射す陽のように、微笑んだ。
これから空が晴れる、その先触れのような笑顔に、真一朗は見とれた。