21

The Circus<スズ>

 午後6時前のザ・サーカス受付ロビーでは、今日も警備担当者とスイとのミーティングが行われていた。客の来訪時間や人数についての変更点が共有され、散会となった直後に、受付の電話が鳴る。応対したイチカの様子から、相手が伊木真一朗であることを察したスイは、嫌な予感に眉を寄せた。イチカが受話器を置いたところで、受付に近づく。

「スズ、今日は帰らないって」顔を上げたイチカは、カウンター越しにそう言った。

「……は?」スイは、動きを止める。

「だから、今晩はシン先生のところに泊まるんですって」

「何で、」

「何でって、ヤボなこと訊くのね」

 自分の仕事に戻ってキーボードを叩きはじめたイチカの姿が、ぼやけて見える。スイは、よく働かない自分の目を叱るように、強い瞬きを何度も繰り返した。イチカからは見えない位置にある、右の拳を、壊れそうなほど握りこむ。

「……だってさぁ、イチカちゃん。あいつ今まで、紅んとこ以外で、休みの日に泊まってくるなんてことなかっただろ?」

「あの子ももう大人なんだから、いつまでもお家にじっとしてなんかいないわよ。それに何てったってシン先生、いい男だしねぇ」うっとりと語尾を伸ばして、イチカはたまらないというように首を振った。

「あいつのタイプじゃねぇよ」

「なによ、アンタまさか妬いてんじゃないでしょうね、」イチカはちょっと手を止めて、渋面を上げた。

「……そういうわけじゃないけど、さぁ……」スイは口ごもる。

「やぁねぇ、娘の彼氏を認めらんない頑固親父みたい」再び手を動かしはじめながら、イチカは苦笑した。

「んな年じゃねぇし」スイは言い捨てると、ぷいと右を向いて、そのままずんずん店の奥に進んだ。突き当たりで、エレベーターの方へ廊下を曲がる。

 視線の先、リネン室の扉が開きっぱなしになっていて、中から女の腕がそれを支えていた。話し声も聞こえる。スイはそちらに視線を遣らずにスルーしようとしたのだが、中から「あっ、スイ! ちょうどよかった、」と声を掛けられ、仕方なくそちらに顔を向けた。

 リネン室の中には、女が2人。……いるように見えるが、実際には、扉を開けて待っている、紅菊(こぎく)という正団員の方だけが女だった。奥の方にいる、長い黒髪を後ろでひとつに結った、女物のキモノ姿の人物は、正真正銘の男、こちらも正団員の肖(あやか)である。

「さっきの報告書だけど、探したら……」言いながら近づいてこようとしている肖の動きを、スイは、強い口調の「後で」で封じて、エレベーターホールに入っていった。待っていた箱に乗り込む。

「ちょ、」肖がリネン室を出てきたときには、スイはもう、エレベーターの蛇腹扉を閉めてしまっていた。

「……んだよ、自分が急いで提出しろって言ったくせに……」上昇する箱をたっぷり睨みあげてから、肖は、くるりと後ろを向いた。扉の陰からこっそり窺うように、紅菊がこちらを見ている。小動物のような、愛らしい顔立ちなので、そんな仕種が嫌に似合った。

「肖くんとケンカしてるとき以外で、スイがあんな顔してるの、初めて見たよ……」ひそひそ声で呟く。

 俺は俺とケンカしてるときでも、あんなスイの顔は見たことないけどな。肖は腹の中だけでそう返す。あの顔は、違う。ケンカで気が立ってるだけの表情じゃない。

 肖は紅菊と別れて、受付に顔を出した。

「イチカさん、スイ、さっきここ来てた?」

 訊ねると、カウンターの内側で事務作業に勤しんでいるイチカは、「放っときなさいよ、嫉妬の鬼んなってるから、今」と、首を竦めてみせる。

「嫉妬?」肖は訊き返した。

 イチカはちらりと目を上げ、「スズがシン先生のとこに外泊するって知った途端、お父さんモード入っちゃったのよォ」と嫌そうに言った。

「あぁ……、てか、何、外泊って。仕事外でってこと?」

「あの子今日休みだもの」イチカはあっさりと肯定する。

 何だよ。結局、スズの野郎、浮気してんじゃないか。綾のやつ、スズが伊木真一朗に《気》があるなら、それは商売っ《気》だとか、知った顔で偉そうに抜かしてたくせに。嘘吐きめ。

 イチカは、肖の顔を暫く見上げていたが、ひとつため息を吐いたかと思うと、「あなた、今日は9時入りよ」と念を押してきた。

「言われなくても知ってるけど」不思議そうな顔をした肖に、イチカはもう一度大きな息を吐いてから、「言っても無駄ね」と手を振った。あっちに行け、というジェスチャーのようだ。

 肖は首を捻りつつ、来た道を引き返す。

 その後姿が廊下の角に消えてから、イチカは、頬杖をして、目を遠くした。

「あたしって、男みたいにバカになれないから、女になったのかしら……」

 女だって同じくらいバカよ。恋愛以外の場面ではね。

 そんな、親友の諫める声を、イチカは空耳に聞いた。


     ★


 肖は、正団員の部屋が多い3階でエレベーターを降りた。彼の部屋とはエレベーターホールを挟んで反対側の端にある、スイの部屋に真っ直ぐ向かう。キモノをきっちりと着込んでいると歩幅が制限されるので、急いでいても、気ばかり急いて移動時間は縮まらない。

 副団長の部屋の扉を、肖は遠慮のない勢いで連打した。片手ノックが両手での乱打に変わった頃、ようやく、内側からドアが開けられる。

「……後で、つったろ……」不機嫌極まりない顔が、扉の隙間に覗く。乱れた前髪の合間にちらつく、充血した眼が痛々しかった。

「だから、ワンクッション置いてから来てやったんだろ」肖は言い返し、ほとんど押し入るような形でスイの部屋に入った。勝手に、応接間のソファに腰を下ろす。舌打ちが聞こえ、スイも遅れてやって来た。端の方に、どっかと深く腰掛けている。

「まずはこれ、頼まれてたやつ」肖は持っていた紙の束をテーブルのスイの前に投げ置いた。この1年以内に、新しくザ・サーカスの会員となった顧客に対する調査をまとめたものだ。

 スイはちらりと書類に目を遣っただけで、「ああ」と気もそぞろな声を出して、手で、テーブルの端の方を探りはじめた。

「……煙草なら、こないだ、全部捨てたろ」

 肖が、彼にしては控えめなトーンでそう言うと、「あぁ……」と低い唸り声に続けて、スイの口から、舌打ちがこぼれた。「おまえ、持ってねぇか」

「アンタの為に、一緒に禁煙してやってんだろ」

「あぁ……、ったく、使えねぇな、」スイは前髪を掻き毟るように烈しくかき混ぜ、テーブルの上に組んだ足を投げ出した。「用が済んだなら出てけよ」

「……俺をそうやって詰れば、ちょっとは気ぃ晴れるか?」

「……アァ?」左右の表情を歪めたスイが、肖の顔を、掬うように見た。

 そんな顔も、格好いい、なんて。

 俺は正気だろうか。正気なわけがない。このジジイを好きになって、もう、何年目だ。クソが。肖は悪態を口に出さずに、スイの顔を真顔で見返した。

 カーペットの床を蹴って、ソファの上に乗り上げる。スイの頭を捕まえて、捕食するようなキスをかます。それで、何も考えずに済むようにしてやる。

「……ッ、やか……」

 弾力のある厚いスイの脣を割って、肖は、舌をねじ込んだ。ぬめった相手の口内に押し入る昂奮は、まだ、数えるほども経験のない、スイを抱いたときのそれとそっくりだった。肖は、夢中でスイの舌を吸う。

「…………めろって、肖……ッ!」

 肖の脣から逃れたスイは、膝の上に跨っている自分より小さな体を、ソファの上になぎ倒した。そのまま馬乗りになる。荒い息をしながら口もとを拭い、同じように息を荒くしている肖を、見下ろした。

 肖は挑発的に笑みながら、後ろで結んでいた髪を解いた。明るい色のソファに、艶やかな黒い髪が、夜のように広がる。

「おまえのそういう所が、嫌いなんだ……!」スイは、肖の、キモノの裾を、膝で割った。何かの比喩のように、熟れた果実の色をした襦袢が露出して、眼下に晒される。

 肖は、目を閉じた。

 好きな男に衣を乱される歓び。

 スズへの怒りと感謝という、相反する気持ち。

 スイへの愛情と苛立ち。

 自分への嫌悪。

 それらの感情がふいに、涙になって、内から溢れそうになったからだ。暴走しかけた想いを、肖はすんでで引き止めて、体じゅうに散らし、そっと、目を開いた。脣の端には、取り繕った笑みを、そうとは気づかせぬ自然さで引っ掛けている。

「俺も、テメェのこういうとこ、嫌いだよ……っ」肖はそう吐き捨てて、トラウザーズの下で固くなったスイの形を、手の中で確かめた。


inserted by FC2 system