03
夢が降る
「イチカちゃん、これがラストだ。俺たちは今日これから、次の街に移動する。一緒に来てほしい」スイ・ラビは、この状況が目に入っていないんじゃないかってくらい平然と、犯されてるあたしに声を掛けてきた。「あたしは、……ね、スイ・ラビ……。降ってきた幸せは、信じ、ないの……」
「でも、服は、ネイキッド・ストリートに降ってきたんだろう?」
「揚げ足、取らない、で……ッ」
「お前、サーカスのスカウトか。人のオンナに妙な色目使いやがって、ただじゃ帰さねぇぞ」
あたしから体を離したジェイは、拳銃を手に、スイ・ラビの方へ足を踏み出した。スイ・ラビは大人しく両手をあげている。あたしは下着を引っ張りあげながら、大声で、
「あなた、路の上で生活したこと、ないでしょう!」
と、スイ・ラビに声を掛けた。ジェイが、咎める視線をちらりとこちらに寄越してくる。
今よ、逃げて。
そう口で言う代わりに、意味のない質問をしたのに、彼はジェイがあたしの方に視線を外したその一瞬の隙を、
「一度も」
と、あたしのせりふに答えることに使ってしまった。本当に、男って馬鹿だ。馬鹿ばっかり! 仕方なく、あたしは話を続けた。
「あなた、もう少し若い頃、将来のことで悩んだりしたでしょう」
「イチカ!」
ジェイの怒号も、不思議と恐くはなかった。スイ・ラビはちょっと肩を竦めてみせた。
「実はまだ、悩んでる」
甘ったれた答え。
あたしは後ろから、ジェイの太い腰に腕をまわした。ぎゅっと抱きついた大きな体の陰から、傾げた顔だけを覗かせて、スイ・ラビを見下ろす。
「あたしはずっと路の上にいて、将来のことなんて考えないの」
「そういうことだ、わかっただろう。イチカはどこにも行かない」
背後から見ていても、ジェイの頬が満足げに緩んだのが分かった。
「うん」
スイ・ラビはただ頷いて、あたしの顔をみつめた。その灰色の瞳をみつめ返してみても、あたしにはもはや見えなかったが、最初の日に感じた冷えた凄みは、この奥に、きっと今も潜んでいるのだ。
「黙って失せれば、今回だけは見逃してやってもいい。さっさと消えろ」
「ねぇ、最後にひとつだけ、訊いてもいいかしら」
上目遣いにジェイにおねだりする。それは同時に、スイ・ラビに向けた言葉でもあった。2人の無言を承諾の意味にとって、あたしはスイ・ラビに訊ねた。
「もし、あなたについて行ってたら、あたしは何を得て、何を失ったのかしら」
「そうだなぁ……。君の背負う責任みたいなものがもっと重くなって、今より自由な時間もなくなって、それからこれが一番の問題だろうけど、イチカちゃんに今愛する男がいるなら、そいつともさよならしてもらわなきゃならない」
スイは、ジェイをちらりとも見ずに言った。
「得る物はナシかよ。行かなくて正解だったな、イチカ」
「うちに来ただけで得られるものなんかないよ。それはイチカが、自分で手を伸ばして掴むものだろう。その素敵なバッグやワンピースみたいに」
あたしは、ジェイの染みをつけられたワンピースと、やっぱり庇いきれずに壁に擦れて小さな傷ができてしまっているバッグに目を落とした。ぐっと、静かに、ある思いがわいてくる。怒りじゃなくて、悲しみでもなくて、それは、闘志、みたいなものだった。
あたしは目の前にあるジェイの股間を、思いっきり蹴り上げた。
「ちょうどよかったわ。オトコとは、10日前に別れたばかりなの!」
声にならない呻きと共に、山のようなジェイの体が崩れる。スイが弾かれたようにあたしの手を取って、2人で通りへ駆け出した。ピンヒールを脱ぎ捨て、賑わいはじめたネイキッド・ストリートの人の波を掻き分けて走る。顔見知りの街娼たちの愕いた顔が、どんどん後方に流れてゆく。とんでもなくハイな気分になってきて、あたしは叫んだ。
「今日から、お世話になるわ、スイ!」
「よっしゃあ、お世話いたします女王様! やったぁ!」
あたし以上にはしゃいだ声をあげるスイは、通りの外れに停まっている軽自動車に向かって「ヘイ、タクシー!」と大きく手を振った。それ、タクシーじゃないんじゃない。あたしが冷静なつっこみを入れる間もなく、夕闇に紛れるような群青色の自動車が急発進して、あたしたちの前に停まる。後方のドアから、まずスイが乗り込んだ。あたしも続けて乗り込もうとした、そのとき、銃声と同時に、足下の石畳に火花が散った。
「次は当てるぞ、動くなイチカぁ!」さっきは全然恐くなかったジェイの怒声も、弾丸とセットになっていれば相応の効果があった。一瞬、足が竦む。
「乗ってイチカ早く!」
スイに腕を引っ張られて、あたしは上半身だけを後部座席に突っ込んだ格好になった。その状態で、車がいきなり、無茶な方向転換をする。
「きゃぁああぁああああ!」遠心力で振り落とされそうになって、手に触れている車のシートだか何だかに、あたしは必死で爪を立ててしがみついた。
「痛い痛い痛いイチカ痛い!」
「お前ら叫んでる暇あったらドア閉めろ!」無謀な運転をした張本人に怒鳴られる。スイが、車外に突き出たあたしの足を無理矢理折り畳んで、ドアを引いた。そしてまた、急発進。
「何でこんな大騒ぎになってんだ馬鹿野郎!」
「いいじゃんもう、女王様も手に入ったし、みんな無事だったんだから」いや、俺だけ無事じゃねぇけど。あたしは、シートの上に赤ちゃんみたいな格好で転がっていた体を、何とか立て直して、スイを見た。両腕にできた長い爪痕からは、血が染み出していて、ものすごく痛そうだった。
と、人ごとのように思って、すぐに、その傷をつけたのが自分であることに思い至った。さっき、座席から振り落とされまいとあたしがしがみついていたのは、シートではなくスイだったのだ。
「ご……ッ、ごめんなさい……!」
「謝ることねぇぞイチカ。何もかもこいつの詰めが甘かったせいだ」運転手が吐き捨てる。ルームミラー越しに見ると、サングラスで顔はよくわからなかったが、かなり年上の男のようだった。
「だって、まさかポン引きの彼氏がいるとは思わなかったんだもん」
「彼氏じゃなくて、元彼」
訂正して、あたしは体ごと後方を向いた。あたしの街は、もう、ずいぶん遠ざかってしまっていた。ネイキッド・ストリートの明るいネオンが夜空を照らしているのを、あたしはしばらく、黙って眺めていた。
「イチカ。あの街はもっと良くなるから、大丈夫だよ」
ずいぶん経ってから、スイが言った。
「クノは、一人残らず路上の子供を救う気だ。それが不可能じゃないって、本気で信じて動いてる。だから、今のネイキッド・ストリートの状況は、まだ応急処置の段階だよ」
「……そんなこと不可能だって、誰もが、そう思ってるわ。自分が生きてる間にこの星が終わることはないだろうって信じてるくらい、当たり前のこととして」
「まぁ、なんつっても、神様だから。人間とは根本的に考え方が違うのかも」
スイは、そういって口もとを緩めた。
あたしは、ネイキッド・ストリートが本当に救われる日のことを、想像した。そこにはやはり、毒蛇の姿はない。そしてスイの言うことを信じるなら、毒蛇自身も、きっと、そういう未来を見ているのだ。
「とにかく、誰が何といおうと、クノだけは本気だよ。……イチカも、そんなの無理だって匙を投げる?」
「あたしがどうして、毒蛇を神様だなんて臆面もなく言えると思ってるの?」
胸を張って、あたしは答えた。
「だってさ。よかったな、おっさん」
スイは笑って、運転手にそう水を向ける。
「え……っ、ちょっ、ちょっと、待って待って待って、……うそ、嘘でしょ、……」
あたふたして声も裏返ってしまっているあたしの肩に、落ち着いて、とスイが笑いながら手を置く。サングラスの運転手も、さもおかしそうに声をあげて笑って、言った。
「歓迎するよ、イチカ。ようこそ、俺のザ・サーカスへ」
(『夢が降る』了)