02

ザ・サーカス

 俺はクノの手で、フロントから近い客室へと担ぎ込まれた。渡された痛み止めの錠剤を水で流し込む。飲んで、10秒くらいしてから、やっと少しだけ落ち着いた。

「…………ごめん、……ありがと……」

「次はこっちだ」

 塗り薬は3種類もあった。クノは俺のトラウザーズと下着を、有無を言わさずに脱がせた。うつぶせに、尻を晒す格好になる。普段の俺なら、まず間違いなく「自分でやるから絶対こっち見るんじゃねぇぞ」とか喚くところだが、痛みに打ちのめされて、そんな元気が残っていない。クノの手が俺の尻にかかって、ごく軽くだけ、外側に押した。俺は体が緊張に強ばるのを誤魔化そうと、鼻で細く息をした。

「あぁ、なんだ、こんなもんか。大した傷じゃねぇから安心しろ」その声に、体が一段緩んだのを感じた。クノは説明を続ける。「傷より腫れだな、酷ぇのは。腫れ止めはこっち。ケチらずたっぷり塗れよ」

 俺の見えるところに翳したチューブ入りの薬の封を切って、クノは手早く、俺の尻の穴にそれを塗った。軟膏が、熱ですぐにやわらかくなる感覚に、たまらない、嫌な気分がわく。昨晩、パトロンの手で潤滑剤を塗られたときのことを思い出したせいだった。熱くなった目の奥を、下脣の内側を強く噛むことでごまかす。噛み切ってしまう寸前の力加減で、しばらくギリギリと我慢していたのだが、途中でふと、『毒蛇』にいきなりケツの世話をさせている自分が、ずいぶん大物のように感じられて、おかしくなってきた。

 新しい下着とガウンを渡されたので、ありがたくそれを身に付け、改めてベッドにうつぶせになる。

「あー……生きた気がしなかった……」

「さっきまでより、マシになったか?」

「うん。ありがとう、クノ……」頬に当たるシーツの柔らかさと、微かな柔軟剤のにおいが、俺をベッドに縫い付けた。ゆうべから、思えば一睡もしていない。

「で、さっきの話は考えてくれたか?」うちの団員になる気はねぇか。実に簡単に、クノはさっきそう訊いた。

「今までの苦悶の時間のどこに、そんな重大事項を考える余裕があったと思うんだよ」顔を横に向けて、吐き捨てる。クノは声をあげて笑い、俺のこめかみの辺りに、てのひらを載せてきた。温かくも、冷たくもない。ちょうどよすぎるほどちょうどいい温度だった。

「すっかり、素に戻りやがったな」

「礼なんか言っちまったけど、俺がさっき苦しんだのは間違いなくアンタのせいだ。金輪際、アンタに敬語は使ってやらねぇ……」クノの笑う声を聞きながら、俺は瞼を閉じた。


     ★


 目を開くと、枕元に、畳まれた俺のセーターと下着が重ねて置かれてあった。下着は、どうも洗濯されているようだ。シーツと同じ、柔軟剤のにおいがする。その上に載せられた、茶色い紙袋に手を伸ばす。中には、さっきの薬が、説明のメモと共にまとめて入れてあった。

 用心して体を起こす。尻はほとんど痛まない。薬がまだ効いているようだ。どれくらい寝ていたのだろう。ナイトテーブルに置かれた腕時計が、3時12分を指しているのを見つけ、俺は慌ててベッドを下りた。ここへ来たときはまだ朝だったから、5時間もここで寝ていたことになる。俺は今朝、「散歩に行ってくる」といってパトロンの家を出てきたのだ。なるべく早く戻らないとまずい。

 着替えてロビーまで出ると、フロントにはさっきの美人が、レイトを抱えて座っていた。レイトは美人の腕の中でうとうとしている。

「あら、もう平気なの? ちょっと待ってね、クノさん呼ぶから」スイ、帰っちゃうみたいですよ。彼女は電話口でそれだけ告げる。クノはすぐに現れた。

「帰んのか?」

「うん。薬とか、ありがとな」

「うちで働いてくれって話、あれ、本気だからな」

「わかってる。でもどっちにしろ、一旦帰らねぇと。ずっと使ってる道具とか作品ファイルとか、とにかく全部、パトロンのとこに置いてるし」

「パトロンって、そうか。愛人関係だけってわけじゃねぇのか」クノは顎に手をやってにやりとする。「芸術家にゃ見えねぇけどな、おまえ。何やってるんだ?」

「版画」と言われても反応に困るだろうと思って、俺は間を空けずに続けた。「なぁ、クノ。俺に考える猶予はどれくらいある?」

「来週の頭には、次の街へ移動する予定だ」

「……じゃあ、それまで上手くやって体をやすめとくから、次来たとき、アンタ……俺のこと、抱いてくんない?」

「いいけど……俺の技術いかんで、入団するかどうか決めるってのか?」

「もちろん、ちゃんと考えるよ。俺にとっては、かなり重要な人生の分かれ道だから。でも最終決定は、アンタの腕で下すつもり。団長のレベルを見るのが、一番分かりやすそうだし」

「ついさっきまでケツ腫らして泣いてたような奴が、よくそんなこと考えつくな」からかっているというよりは、感心したような声音だった。それが余計に俺を恥ずかしくさせる。

「泣いてねぇし!」反論すると、クノも「うふふ」の美女も、いつの間にか目を覚ましたらしいレイトまでもが、一緒になって笑った。


     ★


 パトロンの邸は、駅の反対側の高級住宅街にある。ひとりになって、塵ひとつ落ちていない、舗装された坂道を歩いていると、先刻、自分の身に起こったことがすべて、夢だったような気さえしてくる。俺はポケットの上から薬の入った茶色の紙袋を触って、かさかさという音を鳴らせた。

「ただいま戻りました」自室で、効果の切れかけていた痛み止めの薬を飲みなおしてから、俺はパトロンの部屋を訪れた。

「ずいぶん長い散歩だったね」にこやかな顔で、男は嫌味を言った。

「すみません。……病院へ、行っていたもので……」俺はホラを吹いた。

「きみがあんまり魅力的だから悪いんだよ。それで、体はどうだい?」謝りもせずに、パトロンは言った。

「大丈夫です。薬も貰ったので……。ただ…………」

「ただ?」

「……その……。傷が塞がるまで……その……」

「何だい?」

「…………う、後ろは、使っては、いけないと……」

 クノは、来週頭がタイムリミットだと言った。5日で、傷を完治させねばならない。クノに、抱かれるために。

 それを思うと、脇腹がくすぐったいような、待ち遠しいような気持ちになる。もう、俺は答えを出しているのだと、それで知った。

 パトロンは、俺をベッドへと招いた。せめてもの罪滅ぼしだ。俺はそれに無言で従った。服を脱いで、指示されるままに、尻を男の方に向けた、四つん這いの姿勢をとる。

「医者に、中まで全部、見られたんだね……?」男の両手が、俺の尻を撫でさすった。

「はい……」

「どんな気分がした……?」

「は……、恥ずかしくって、……たまらなかったです……」

「それでまさか、上の口も使ってはいけないとは言われてないだろうね?」俺は返事をする代わりに、身を翻して、男のペニスを深く銜えた。


     ★


 元よりそういうつもりだったのか、挿入が禁じられたことで俺への執着が煽られた結果なのかはわからない。ただ、理由がどれであれ、それから俺には、創作に費やすことのできる時間など、ほとんど与えられなくなった。それ以外の自由も取り上げられて、ひどければ1日中、裸でパトロンのベッドの上にいなければならない日もあった。もはや立派な軟禁生活だ。

 クノに貰った薬はよく効いた。しかし、よく効くせいで、パトロンの「もう傷は治っただろう?」という要請は、日を追うごとに厳しくなってくる。挿入を回避すれば、代わりに要求されるプレイがどんどん過激になって、ついには尿道や乳首への刺激で、射精せずに達することまで覚えさせられてしまった。

 その、日曜の夜。パトロンが風呂に行った隙に、俺は、素っ裸のからだに床に落ちていたシャツだけ羽織って、2階の部屋の窓を開けた。風が冷たい。小雨に目を細めて、真下の、芝生の前庭を見下ろした。窓の桟に足を掛けて、ひとつ深呼吸をし、飛び降りる。ビィン、と、着地の衝撃が痺れになって、足の裏から膝にまで上ってきた。その場でちょっと足踏みをして異常がないことを確かめ、シャツのボタンを留めながら、俺は駅の方面へと走った。掴んだのが、パトロンのシャツでよかった。俺にはサイズがでかすぎるが、おかげで膝のあたりまで隠してくれる。

 雨の移動娼館街は、街路灯やホテルの灯火が、濡れた石畳や建物の硝子窓にも映り込んで、深夜2時とは思えないほどに明るかった。人目もないわけではなく、俺はいくつかの好奇の視線と、きらめく街灯を全身に浴びながら、石畳を裸足で蹴って、クノの店を目指した。

 やっとザ・サーカスに辿り着いて、玄関のステップを上がりかけたら、慌てて飛び出してきた警備員に道を塞がれた。押し問答をしていると、「その子、クノさんのお客だから離してあげて」と、こないだもフロントにいた「うふふ」の美女が外に出てきて言った。今は営業時間だからか、素敵なドレスを身に着けて、髪も結い上げている。警備員たちはたちまち蒼白になって俺から離れ、「申し訳ありませんでした」と頭を下げてきた。

「いいのよ、この格好じゃあねぇ」うふふ、と、彼女は言って、俺を手招いた。「早くお入りなさい、スイ。寒かったでしょう。何かあったかいもの持ってくるから、ちょっと、そこに座って待っててね」

 ロビーの端の方の席に俺を案内して、彼女は一旦フロントの奥へと引っ込んで行った。次に戻ってきたときには、膝掛けと、ホットチョコレートを持ってきてくれる。

「クノさん、今ちょっと手が離せないみたいなの。でも、スイが来たっていったら、嬉しそうだったわ」

「まだ……ここで働くとは、決めてませんよ、俺」

「でも、団長のセックスで決めるんでしょう。だったら、もう決まったようなものだわ」自信たっぷりに、彼女はいった。これは……来るぞ。

「『うふふ』」俺の声と、彼女の声が重なった。

「やだわ、スイったら!」でっかい声を出して、彼女は俺の頭をはたいた。

「おねえさんは……」

「和、よ。数字のかずじゃなくって、平和の和って書いて、かず」

「かっこいい名前だね」

「ありがとう。あたしも気に入ってるの。クノさんに付けてもらった名前だから」源氏名ってことだろうか。俺がここの団員になったら、クノは俺にも、何かそれらしい名前を付けるのかもしれない。

「……で、なぁに? 何か訊きたいことあったんじゃない?」

「あ、うん。和は、フロント係なの?」

「そうよ。あたしはまだ、見習い団員だから」そういって、ちょっと恥ずかしそうに肩をすくめてみせる。

「スイにも、デビュー抜かれちゃうかも。早い子だとひと月くらいで正式団員になれるんだけど、あたし、もう1年も見習いやってるのよ」

 これほどの美人、例えマグロだったとしても、抱きたい男は大勢いるだろう。それを、1年も客を取らせないなんて、俺にはずいぶん非常識なことに思えた。だいたい、早くてもデビューまでにひと月かかるというのだ。いったい、この店で働くというのは、どういうことなんだろう。売ってるのは、普通の娼館と同じセックスではないのだろうか。

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