01

ラーテル

 乳首を隠すか隠さないかという長さまで伸びたブルネットを、自分でひと房、掬ってみる。それは一瞬も同じところに留まっておらず、つるつると、俺のなめらかな指先をすべって逃げた。

 つい2年前、この移動娼館『ザ・サーカス』に、団員として雇ってもらったそのときまで、俺は自分の身なりに注意を払ったことなどなかった。髪はただ短く刈っていただけだったし、垢にまみれた爪はぼろぼろに欠けていた。指先の固くなった皮膚は、年中ひびわれて血を滲ませていたが、その程度の痛みは自分の生を実感できるよすがでしかなかった。路上で生きる俺の傍には、そんなちっぽけな痛みよりよほど恐ろしい、空腹や長い冬や銃弾のもたらす死への痛みが、常に鎌首をもたげていた。

 ベッドに寝そべったまま、俺はナイトテーブルに並べた酒瓶の中からジンをとり上げ、グラスに注いだ。半分にしたライムを絞って、果汁に濡れた手でグラスを持つ。ひとくち呷る。ていねいに磨きこまれた爪は、ベッド脇の灯りをそれぞれに反射して煌めいている。グラスを持ち替え、汁がしみこんだ指先を啜った。爪の間に入りこんだ果汁は、ジンのにおいを刹那途切れさせるほど、酸っぱかった。昔だったら、傷にしみてこんな真似は絶対にできなかったろう。想像するだけでも、ない傷がひりひりする。

 あの頃とは、生きている場所が違う。サーカス団員にとっては、自分を魅力的に保つことこそが死活問題だった。客がつかねば、飢えも寒さも理不尽な暴力もないこの夢のような場所を追われることになる。路上で身を守るための衣服や拳銃や暴力が、ここでは、つややかな髪と肌とセックスのテクニックだというだけだった。

 元の手にグラスを持ち替えようとしたときに、濡れた指先がそれを取り落とした。腹の上にぶちまけられたアルコールが、脇腹を幾筋も垂れてゆく。冷たい流れに、俺は身震いした。素肌にまとった薄衣が、水分を含んで貼り付いてくる。青灰色のシーツに、飛沫の痕がくっきりと描かれた。

 波打ったシーツの谷間に転がったグラスは、磨かれた爪と同じように、薄暗い照明に鈍く呼応している。俺が首を傾げれば、グラスを動かさずとも、光の場所も強さも変わる。右に左にと、少しずつ頭を動かして、意味なく反射光を目で追っていたら、部屋の扉が開いた。

「あぁあぁ、また酔っぱらってのお出迎えかい」

 今夜一人めの客は、マーという名の、40がらみの資産家の男だった。去年のこの街での興行のときに、団長から、「きっと誰よりお前を気に入るよ」と直接紹介された客で、その言葉通り、今年も俺を贔屓にしてくれている。

「出迎えてなどいない」

 俺はその上客へ向かって、寝転んだままそういった。マーは気にした風でもなく、「これぞ大虎だな」と、クイーンサイズのベッドからはみだす勢いで伸びた俺の手足を揶揄して、笑った。クローゼットの前で立ち止まったマーは、そこで、いつものようにスーツを脱いだ。外は雨なのか、肩のところが濡れて色が変わっている。シャツと靴下だけの間抜けな格好になると、ひとり、風呂場へ向かった。妻に見向きもされない、侘しい中年男の暮らしを覗き見ているようだ、といつも俺は思う。マーは、真直ぐに風呂へは向かわず、ベッドへ近寄ってきて、シーツの上に転がったグラスを拾いあげた。

「またジンか、よく飽きないな」グラスの匂いを嗅いだマーは、眉をハの字にした。この街での興行が始まってすでに2週間、俺は酒といえばジンばかり飲んでいる。

「過去7回、飽きかけたことがあるけどな」

「飽きかけたのを、何でまたわざわざ飲む」

「好きだからに決まってる。俺はくせの強いのが好きなんだ、酒でも何でも。でもそういうのは飽きが来るのも早いし、その飽きがまた強烈だ。一度本気で飽きると、好きだったはずの味が、思い出すだけで吐き気を催すようなものになったりする。だから個性的な味をできるだけ長く楽しもうと思ったら、飽きるより先に次の味に乗り換えて、忘れた頃にまた戻ってくるのが得策だろう」

「サーカスのシステムと一緒だな。確かに君みたいにくせの強いのは、年がら年中相手をしていたらこっちの身がもたない」濡れたシーツを換えておくように、といい置いて、今度こそマーは一人で湯殿へ行ってしまった。

 俺は内線で、マーの気に入りである嬰矢(えいし)という見習い団員を呼びつけて、シーツの交換をさせた。嬰矢は、俺の色違いであるかのような風情の男だった。肩下まで真直ぐに伸びた金の髪に、きちんと鍛えているのが瞭然の体の線、180センチを軽く超える長身、そして、普通にしていても偉そうに見えてしまう顔つき。マーの好みは実に分かりやすい。

 嬰矢は、持ってきたいくつかのシーツを俺の肌にあて、その中から暗い紅色のシーツを選んだ。

「ガウンも新しいものに替えますか」

「ああ」

「体を拭いてもよろしいですか」

「好きにしてくれ」

 嬰矢は俺と同い年だが、俺に敬語をつかう。サーカスの序列は、年齢ではなく娼妓としての格で決まるからだ。しかし敬語をつかったからといって、へりくだっているようにはとても見えない。それが、俺や嬰矢のような顔をした人間の持つ宿命なのだ。

 零したジンでべとつく俺の腹を、嬰矢は固く絞ったタオルで清め、今まで着ていたのとほぼ同じ形の黒い薄衣を羽織らせた。

「クローゼットの背広が濡れているようですが、クリーニングにまわしましょうか」

「頼む」ついでに、酒肴を適当に拵えて、40分後に持ってくるように、と言いつけた。マーの風呂は無闇に長いのだ。

 やるべきことを済ませて暇になったので、新しいシーツの上に寝転んで、俺はまたジンをやりはじめた。長湯を終えてガウン姿で戻ってきたマーは、まず、シーツが交換されているかを確認した。それから、洋酒の壜をキャビネットから自分で取り出して、ソファで晩酌をはじめた。ただし、酒の栓は抜かれない。グラスに注がれるのは、水とか、炭酸水ばかりだ。「ことの前に飲酒をすると役に立たない」といって、俺を満足するまで抱いてからでないと、一滴も酒を口にしないのだった。

 ちょうど計算通りのタイミングで、酒肴の皿が運ばれてきた。

「やぁ、嬰矢。シーツを替えてくれたのも君だろう」

「はい。どうしてお分かりになるんですか?」嬰矢は、ローテーブルの脇に正座するような格好でマーを見上げた。

「君が良い選択をしたからだよ。今日の酔っ払いの青白い肌には、濃紅のシーツがよく映える。君、デビューの目処はまだつかないの?」

「残念ながら」

「ベッドの指導はクノが?」

「はい。今日もこれからまたみっちり、訓練の予定です」

「クノがうらやましいねぇ。俺が代わりたいくらいだ。多少の無作法には目を瞑るから、マーがどうしても嬰矢を欲しがってるって、団長殿に伝えておいてよ」

「嬉しい! ありがたく伝えさせていただきます。それでは、どうぞごゆるりと」

 マーは、うちの団長である『毒蛇のクノ』が、現役の団員だったころから、このサーカスに通っているらしかった。これでいて、重要顧客リストの上の方に名前があるような人物なのだ。そのマーから直々の要請となれば、嬰矢は時期を早めてのデビューになるかもしれない。

「いやぁ、いいねぇ。『嬉しい!』だってさ。かわいいねぇ」

「かわいい? 180センチ超え6パックの、成人した男が?」

 俺はようようベッドから起き上がった。ジンの瓶とグラスを手に、マーの隣へ座る。傍についたからといって、水を注いでやるわけでもなければ、酒肴を取り分けてやるでもない。ただ、ソファにだらりと身を預け、手酌で酒を飲み、たまにつまみに手を伸ばす。からだを撫でられれば、喉をならす。話を振られれば言葉を返す。やることといえば、それだけだ。サーカス団員は給仕ではないのだから、客の食事の世話までしてやる道理などないと俺は思っている。

「おやおや、妬いてるのかな」マーはいつもの勃起薬を飲み下した。

「そんなわけないだろう。純粋な疑問だ」

「そういう君の方こそ、3日前と比べてまた背が伸びてないか。今何センチあるの」

「3日前からずっと188センチ」俺は答えた。マーは「ずっと、ね」と笑って、俺の薄衣の裾を大きくめくった。だらしなく伸ばした俺の内腿を撫でさする。俺は、両の脚をクロスさせるようにして強く挟みつけ、そのいやらしい手を封じた。「捕まっちゃったよ」といって、マーはまた笑う。

「君もたしか、今年19だったよな。それなら、まだ伸びしろがあるかもな。まったく、最近の若者は図体ばかり大きくていけない」

「昔は、誰からもチビって呼ばれるくらいチビだったけどな」

「本当かい? ううん……」マーは唸って目を閉じた。眉間に縦皺が入ったかと思うと、すぐに目を見開いて、「小さいフィルの姿なんて、これっぽっちも想像できんなぁ」と諦めたように首を振る。

「俺だって、何も覚えてない。あの頃自分がどんな顔してたのかも、どんな風に、周りが見ていたのかも」

「あぁ、そうだねぇ。そうだろう。そしてかつての目線を失えば、見えていたはずの風景だけでなく、そのときの心までをも失ってしまう。人間とは、そうやって成長し、老いてゆくのだ、少年よ」

 マーはふざけた口調でまじめぶったことをいいながら、俺の内股に締め付けられた指先を、細かく揺らしはじめた。くすぐっているようにも、放せといっているようにも感じられる。そんなにくすぐったくもなかったし、放せばこの場ですぐに抱かれるのが分かっていたので、俺は足を解かなかった。

「図体も小さくて、いうこともすることも詰らないんじゃあ、ジジイの方がよっぽどいけない」いい捨てると、マーが指先の動きを止めた。

「君は口が悪すぎる。なんだってもっとお客に優しくしてくれないんだ」全く本気で言っていないのが丸分かりの、気楽な口調だった。俺は内腿の力を抜いて、マーの指を解放する。マーは、しびれを払うように大仰に指を振っていた。

「俺は本心しか言わない。でも、客が求めることなら何でもやってる。俺が優しくないというなら、そっちがそういう団員を望んでるマゾ野郎だってことじゃないのか」

「まったく、敵わんな」

 マーは、ため息を吐いた。それから気を取り直したように、供された彼の好物の銀杏揚げを、旺盛な食欲で平らげる。彼は、何でも旺盛だ。食欲も性欲も物欲も、冒険心も好奇心も。

「それが仕事で成功する秘訣だよ」

 ベッドの中で、俺がマーのからだを舐めている間などに、彼は決まってそういった持論を展開したものだった。きっと、暇が嫌いなんだろう。

「欲深くなくちゃいけないんだ、地位のある男は。いいかい、フィル。俺たちは、偉くって金が余ってるから、女を囲ったりサーカスに通ったりするんじゃない。凄い女を抱くことに対して、並々ならぬ慾を持ってるんだよ。慾は全ての源だ。これをなくせば、全てを失う」

「俺は……っ、凄い女じゃ、なく……、ただの、でかい、男だ。……よく、こんなの相手に、その気に、……ッ、……なる、な……」

「まぁ、これは君のおかげというよりも、現代医学の恩恵だね」俺の口に入りきらないほど猛った自らの一物を撫でて、情けない顔で笑う。「しかし……生意気な獣を征服できる歓びは、なにものにも代え難いものだよ」

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