04

静日

 今年も中庭の桜は美事に咲いて、それをひと息に散らす嵐もまた、去年と同じようにやってきた。満開の桜に隠れた向かいの部屋の窓硝子には、今頃、斑の模様が描かれているだろうか。

 窓に背を向け、ガタガタと風に揺さぶられる窓の悲鳴に耳を傾けていると、久しぶりに明月のことを思い出した。明月と最後に過ごした時間も、こんな、春の嵐の宵だったからだろう。

 なつかしい、なで肩の線や、切れ上がった目尻。くっきりとしているのに、どこかよそよそしく見えた笑い方。彼の名にぴったりの、明け方の月のような笑顔だと、ぼくはいつも思っていた。

 まだ、あれから1年しか経っていないのに、ぼくは明月の顔も、体も、声も、以前のようにくっきりとは思い出せない。まるで、足をつければ凍りそうな、冷たく澄んだ川底で眠っている明月を、橋の上からそっと見下ろしているようにしか。

 たったひとりの友達を、こんなに曖昧にしか覚えていられないなんて、きっとぼくは心の冷たい人間なのだろう。もしかしたら、背中に螺子のついた人形に変わっていっている途中なのかもしれない。

「静日はどうも、上の空だね」

 ぼくの隣で横になっていたお客さんが起き出してきて、苦笑まじりにそう言った。近ごろ熱心に通ってきてくれている人で、齢は三十半ばくらいだろうか。ぼくを贔屓にしてくれているお客さんの中では、かなり若い方に入る。いつもにこにこしていて、今も、ぼくがぼうっとしていることを怒るでもなく、指先でぼくの巻き毛をいじって遊んでいる。

「ごめんなさい。……風が強いのが、怖くて……」ぼくが言うと、お客さんは少し意外そうに目を丸くしてから、手招きをした。

「膝の上においで。抱っこしてあげよう」

「ありがとうございます……」体重を加減しながら、恐る恐るお客さんに凭れ掛かる。するとお客さんは、

「僕と静日の仲だろう。気を遣うんじゃないよ」と言って、ぼくを強く抱きしめた。なんだか急に緊張してきて、全身に鳥肌が立つ。お客さんは、そのぼくの変化には気が付かなかったようで、彼にまるごと体を預けたぼくの頭を、満足げに「そうそう」と頷きながら撫でた。

「静日はじきに僕の奥さんになるんだから、こうやってちゃんと甘えてくれないと」

「……奥さん……」

 このお客さんに、身請けの話を持ち出されたのはこれが最初ではないが、奥さん、という言葉を使われたのは初めてだった。くすぐったいような、落ち着かない気持ちが強まり、立っていた鳥肌がなお一層固くなる。

「今日ようやく、御上を説き伏せることができたんだ」とお客さんは言った。

「ほ、……本当に、ですか……?」

「僕が信じられない?」

「いえ、そんなことは……。でも、ぼくは……いつも……」

「君の身請け話が、これまでに何度もご破算になってるのは、僕も聞いているよ。君はこの店の看板だ。御上が放したがらないのだろう。でも、安心していい。今度は本当なんだ。本当に、僕が君を自由にしてあげる……」

 頬を撫でられたので、擦り付ける。顔が近づいたので、唇を合わせる。帯を解かれたので、脚を開く。自動人形の動きでお客さんの要求に応えながら、ぼくは、涙が出そうだった。嬉しいんじゃない。悲しいんじゃない。ぼくは、こわかった。何もわからない自分が、自由が、こわい。自由って、何だろう。

 ぼくは一度も、請け出してほしいなんて言っていない。逆に、この店でずっと働きたいとも言ったことはない。ぼくを請け出したいのは、このお客さんや他の一部のお客さんで、ぼくを落籍せたくないのは店の御上さんと番頭さんで、そこまでが全て。ぼくが何を思っても関係ない。ずっと、それは意識するまでもなく、幼い頃から当たり前に、そうだった。

 ぼくの心がこのまま誰にも、自分にさえ見向きもされないままでも、店から出さえすれば、ぼくは自由なんだろうか。

 ほんとうに?

 それが、自由?

 せっかく諾と言わせたのに御上の気が変わるといけないから、身請けの話題は極力避けるように、と笑って言い置いて、お客さんは夜半に部屋を辞した。いつもなら泊まって行く時間だったが、明日は朝早くから仕事の用事が入っているらしい。

「送りの車は本当に大丈夫ですか?」お客さんが別宅として部屋をとっているホテルまでは、ここから歩いて30分ほどかかるはずだった。

「酔い覚ましには丁度いい距離だよ。風ももうだいぶ収まってきたみたいだしね」

「でも、もう遅いですし……」

「心配してくれてありがとう、静日。でもだいじょうぶ。また明日ね」朝までぼくに他の客がつかぬようにと、お客さんは泊まりと同じお代を払ってくれた。御上さんはそれでも何とかぼくに次の客をつけようとしていたけれど、時間も時間だったので上手く行かず、ぼくは久しぶりに朝までひとりで休めることになった。

 時折強く風が吹き付けて、窓枠が軋む。歩きで帰っているはずのさっきのお客さんは大丈夫だろうか。一度はふとんに入って横になったが、妙に気が昂って、なかなか寝つかれなかった。あのお客さんの傍にいると、離れていても彼のことを思うと、いつもこんな風に、落ち着かない心持ちになる。

 ぼくは、恋をしているのだろうか。けれど、ぼくの感じている落ち着かなさは、他人の恋の話に聞くような浮き浮きとしたものではなく、傷口に塩でも塗られるような、ひりひりする感じのものだった。

 枕元の小さな灯だけを点けて、ぼくは鏡台の前に座った。薄闇の鏡の中に映った自分の白い面に、自分でびっくりする。お化けかと思った。

 その、あまりにも無感情な顔を見ていたら、猛烈な焦燥感に襲われた。明月の死んだ朝に感じた焦りに似ていた。どうしたらいいのか、どうしたいのかもわからないのに、焦りだけがぼくの全身をガタガタと揺るがす。ぼくは縋るように、鏡台の抽き出しの奥を探った。指先に当たった布の感触を、摘んで手繰り寄せる。ハンカチに包まれた明月のお守りの固さを、両手でじわりと握りしめて、確かめる。

 明月、と、名前を呼ぼうとして吸い込んだ空気の中に、何か、知っている匂いが混じっていた。ぼくの焦燥を、限界まで煽る匂い。いや、これは焦燥の元、ぼくの焦燥そのものだ。混乱する。匂いの正体を知りたい。本当は知っている。でも、知らずにいたい。

 こわい……!

 ぼくは、そうすれば明月のぬくもりに触れて安心できるとでもいうように、お守りの包みを強く胸にあてた。けれど、何にも変わらなかった。何にも触れなかった。当たり前だ。ぼくをわかってくれたたったひとりの友達は、明月はもう、どこにもいない。

 それでも、ぼくを温めてくれるものはある。明月と過ごした日々の思い出。壁に映した、たくさんの動物の手影絵。ぼくは、そういうたのしい思い出に支えられて、むずがる心に逆らって、じっと、自分の記憶を見晴るかした。

 噴き出した冷や汗が顎まで伝った頃、ようやくぼくは、その匂いを最初に嗅いだときのことをはっきりと思い出した。底の方に渋みが凝っていて、でも全体はさらっとしている、複雑で、高級そうな匂い。明月が死んだ朝、明月の部屋から帰った後に嗅いだ、あの、特異な匂いだった。

 心臓がバクバクしてきて、じっとしていられない。答えはすぐそこだ。たしかめなければ。ぼくは椅子を立ち、かつて明月が住んでいた部屋へ、見えない太い綱に引かれるようにして向かっていた。

 明月の次に、中庭の桜に一番近い部屋を宛てがわれた色子は、深更の訪問者を迷惑そうな顔で迎えた。部屋の中には、誰かがついさっきまで居た形跡はあるのだが、他に人の姿はなかった。

「お客さんは……?」ぼくが訊ねると、

「今、お湯つかってるんだ。話があるなら早くして」と早口に言う。

 ぼくは返事もせずに部屋に上がり、鏡台の一番下の抽き出しを開けた。明月の蒐集した香水たちは、そこに昔のままで残されていた。まずひとつ目の瓶の蓋を開け、匂いを確かめる。桜の匂い。明月が、最後の夜につけていた香水だった。この匂いじゃない。次のを手に取る。

「ちょっと、静日、何するの!」怒りより戸惑いの濃く出た声で咎められる。ぼくはそれを無視して、記憶の中の匂いと、明月の集めた香水の匂いを片っ端から比べながら、

「この香水、君がこの部屋に上がったときには、もうあったものだよね?」と念のために確認した。

「え……、そ、そうだけど……。ほんとに、何なの……?」

 いっぺんに強い匂いを嗅ぎすぎて、頭が痛くなってくる。それも無視して、ぼくは香水の匂いを嗅ぎ続けた。けれど結局、あの特異な匂いは、明月のコレクションの中には見つからなかった。ぐらぐらする頭をあげると、ぼくを覗き込む怪訝な顔と目が合う。

「君が使い切って、今はない香水とか、ある……?」ないよ。彼はすぐさまかぶりを振った。

「僕、香水とか、あまり好きじゃないんだ」

「……そう。ごめんね、突然。お邪魔しました」

「あ……うん……」

 ぽかんとした顔の色子仲間に、無礼の説明もしないで、ぼくは痛む頭を抱えて部屋に戻った。

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