06

静日

 ベッドの上に体を起こそうとすると、毒蛇が背中を支えて手伝ってくれた。

「すみません……」

「その傷だけどな、」ぼくの声を遮るように発された毒蛇の言葉に、自分の右手を見る。包帯で巻かれた自分の手が見慣れなくて、しげしげと眺めた。

「親指の付け根から手首に向かって景気良く切られてた。13針縫ってある。痛みはないか」

「……はい……」

 痛みだけでなく、右手全体の感覚がぼやぼやとしていて、目で見ないと輪郭がつかめなかった。13針縫ったというのも、何だかピンとこない。繕いものをするように、針と糸で裂けた皮膚を縫い合わせたということだろうか。嫌な寒さが肌を這う。まるで自分は物みたいだと思った。

 茫々と右手の包帯を眺めている内に、着物の袖口の色が目覚める前と変わっているのに気づいた。ぼくが店を飛び出したときに着ていたのは、白い襦袢だったはずだが、今は紺色の、タオルのような感触のガウンを着せられていた。

「お前の着物なら今クリーニング中だ。できあがり次第持ってくるように言ってあるから、心配しなくていい」と、毒蛇はぼくが訊ねる前に先回りして説明した。

「申し訳ありません。ありがとうございます。こんな……、命を助けて頂いたばかりでなく、ご迷惑をかけてしまって、本当に……、」

「謝るな」

 毒蛇はぼくの唇を上下から軽く指先で挟んで、ものを言えなくした。かすかな笑いと共に、その手はすぐに離れていく。

「俺が通りかかったら、お前に刃物向けてた男が勝手に逃げ出した。それだけだ。それより、お前こんな時間に外で何してたんだ。子供が出歩く時間じゃねぇだろう」

「……こども…………」滅多に言われないその言葉は、自分に巻かれた包帯と同じくらい珍しくて、ぼくは思わず、声に出してなぞっていた。

「お前、子供じゃねぇのか」

「今年、16になります」なんだ、やっぱり子供じゃねぇか。毒蛇は唇の端を吊りあげた。

「……お前、この近くの店の男娼だろう?」

 ぼくは、口を結んだ。

 相手が偉い相手だと思うと嘘をつく勇気もなく、しかし、自らきく屋の男娼だと申告するのも後のことを考えると恐しくて、どう返事をするのがいいのかわからなかったのだ。すると重ねて、

「きく屋の看板か?」と問われる。さすがに、これを無視することはできなかった。浅く首肯する。

「…………でも、あの……、なぜ……」ぼくが男娼だと、しかもきく屋の看板色子だと、わかったのだろう。もしかして、ぼくが店から逃走したことが、すでに街全体に知れ渡っているのだろうか。

「あすこには凄いのがいるって、噂でな」危惧していたものとはだいぶ違う答えが返ってきて、少しほっとした。毒蛇は、ぼくに当てた目を細め、椅子に浅く座り直した。

「けど、お前がきく屋の看板なら、なおさらこんな時間に外をうろついてるのは解せない話だ」

「……さっき、ぼくを殺そうとしていた人は、ぼくの友達を殺した人なんです」

「仇討ちでも、するつもりだったのか」

「…………わかりません。ただ……、あの人は、今、ぼくの客で……」

 言いかけて、怖気がした。

 毒蛇があの路地を通りかからなければ、ぼくは今頃死んでいただろう。それが本道で、今こうして生きていることは、奇跡だった。ぼくは死に肉薄した。友達が殺されても、ぼくには触ることのできなかった死というものに、ぼくの爪の先はようやく掠った。

 そうしたら、今まで見過ごしてきたいくつもの命が、とても重たく、熱を持ちはじめたのだ。

「でも、奴はおそらく、おまえの前には二度と現れないだろうよ」毒蛇は言った。

「……そう、でしょうか」

「そうしといたから大丈夫」さりげなく付け加える。どういう意味ですか、と口を開きかけたとき、部屋の扉が勢いよく開いた。

「あ、もう起きてる!」

 明るい声で部屋に飛び込んできたのは、毒蛇の、息子と思しき少年だった。ぼくが一目でそう思うくらいに、そのまだ幼い少年には、毒蛇と通じる雰囲気があった。髪と目の色が似ているせいかもしれない。

「レイト。ノックしてからだ」

 振り返った毒蛇に注意を受けたその少年、レイトは、「あっ」と口と目を真ん丸にして叫んでから、「やりなおそ」と時間をさかのぼるみたいにドアのところまで後ろ向きで戻った。もう一度扉を叩く真似をする。

「トントン、入ります」

「はいどうぞ」

「あ、もう起きてる!」

 毒蛇の苦笑に迎えられ、レイトは真直ぐぼくの傍まで駆け寄ってきた。ベッドの端に、きれいに畳まれたぼくの襦袢を載せる。

「これ、できたよ」

「ありがとう」とぼくが言うと、大きな、初夏の桜の葉っぱのような緑色の瞳が、「どういたしまして」と笑みの形に細められた。

「いま和ちゃんが朝ごはんつくってるから、できたらもってくるね」

「いえ、そんな……」朝ごはん。もう、そんな時間なのか。

 ベッドの左手側、ソファセットの向こうに見える窓に目を遣る。きく屋の二階の窓とは逆に、縦に長い形の窓だった。薄いカーテンがかかっていて、外の様子はわからない。するとレイトが、窓辺に走っていって、カーテンを開いた。ぼくは瞠目した。なんて、聡い子だろう。

「さっきまで雨ふってたけど、もうあがったよ。今日はくもりのち晴れ、さいこーきおんは16度だって」さっき天気予報でやってたんだ。その言葉通り、窓の外は向かいの建物と白い雲で埋まっていた。

「ほらレイト、お前は和の手伝いがあんだろ」

「言われなくてもわかってるよーだ」

 退室を促されると、レイトは毒蛇に向かってあっかんべーをした。部屋を出ていく直前に、ぼくに向かって手を振る。ぼくはいつものくせで利き腕の右手を動かしかけたが、包帯が目に入って、左手でそれに応えた。揺れる木漏れ日のような笑顔が、扉の向こうに消える。

 あんな、他意のない笑顔を向けられたのは久しぶりだった。ぼくは、明月を恋しく思った。明月はもういないけれど、ぼくはあの店に帰らなければならない。

 ベッドから下り、皺ひとつなく完璧に整えられた襦袢に袖を通した。右手がちゃんと動かないので、腰紐を締めるのに苦労する。見かねた毒蛇が、ぼくの手から腰紐を奪い取った。椅子に座った毒蛇の正面に立つ。

「店に帰るのか」

「はい」

「一つだけ、正直に答えてくれ」

「はい」

「戻って、お前に命はあるか」

 几帳面な手つきで紐を結んで、毒蛇は、顔を上げた。黄緑の瞳の中のぼくが、ぼくを、じっと見つめていた。

 きく屋では、何か重い罪を犯した色子は、折檻を受けた後、中庭の桜の木に括りつけられ、見せしめに晒される。けれど、その後許されて店に戻ったという色子を、ぼくはひとりも知らない。

 それが何を示すのか、ぼくはわかっていたのだ。わかっていて、ぼくは自分の部屋の窓から、死んでゆく子供の姿をただ見下ろしていた。

 そうして番頭さんの相手をしながら、「あの子は何をしたんですか?」なんて訊ねて、「店から逃げ出そうとしたんだ」「駆け落ちをしようとしたんだ」「客の財布を盗もうとしたんだ」返ってくるそういう常套句に、「だったら罰を受けるのも仕方ない」と流されるように納得して、それでお終いだった。自分の頭で考えることなどしなかった。

 ぼくは、人形みたいだと言われるたびに、いつも心のどこかを無遠慮な手でつねられたように感じていた。それで傷ついて、自分は人間なのだとたしかめていたようなところも、きっとあったのだと思う。

 けれど、ぼくを人形だと言った人たちの方が、きっと正しかったのだ。ぼくは窓からどんな酷い景色が見えても、何もしなかった。何も思わなかった。その報いが今、自分に返ってきたのだ。

 逃げるわけには、いかない。

「……どんなことになっても、治療費は、必ずお返しできるようにします」

「そんなことは訊いてない。正直に答えると言っただろう」

「…………ぼくは、一晩で平均3、4人のお客さんをとります。お休みは、多いときで月に4日くらいは貰えます。忙しい時期だと、1日も貰えないこともあります。毎朝、番頭さんのお相手もします。それで、店で一等立派な部屋と、日に2回の食事を貰っています」事実だけを、ぼくは伝える。

「俺が聞いてる話とは、えらく違うようだ」

「みんな、月に一度あなたの使いが来る日を、たのしみにしていますから」

「……だろうな」苦い顔で、毒蛇は呟いた。

「でもぼくは、今の暮らしに不満はありませんでした。自分をかわいそうだとも、思ってなかった……」

「今は、かわいそうだと思うか?」

「さっきの、お客さんが言ってたんです。ぼくらがみじめでかわいそうだから、殺して自由にしてあげるんだと。ぼくが、かわいそうなんかじゃないって言ったら、自分がかわいそうなことに気づけないくらい不幸なんだ、って……、だから……」

「それは違うぞ」

 毒蛇は背を屈め、ぼくに視線を合わせた。

「誰かが、お前をかわいそうにすることなんか、できない。それは絶対に、お前以外には、誰にもできないことだ。……お前は、どう思う?」

「……ぼくは…………、」

 言葉に詰まる。こんな風に、自分の意見を訊かれたのは初めてだった。ぼくなんかに、何か言う資格などない気がして、喉がすぼまる。けれど、ぼくを正面から見つめる瞳は、ぼくの言葉を、ただ静かに待っていた。落ち着いた毒蛇の表情が、ぼくの乾上がった喉をやさしく潤す。

「ぼくは、なんにも……ものを知らないけど……、自分が、かわいそうなんかじゃなかったことくらいは、わかります。ぼくは人形みたいに、何も考えなかった。どんな酷いものを見ても、何も思わなかった。でもそれは、ぼくがかわいそうだったからじゃなくて……、」

 喉がひくりと震える。飲み込んで、言った。

「……ぼくが、馬鹿だったからだ……」

「それだけわかってれば、お前はもう、ちゃんと人間だよ」

 毒蛇は言った。大きな手が、頬を伝う涙を拭う。

 ぼくの腹の底まで、迷いも、怯えも、ほんの小さな輝きも、殴りつけたくなるほど汚いところも、すべてを知っていて、それでも丸ごと受けとめてくれる。

 そういう、際限なく広くて深い、安心を、彼はぼくに注いだ。体温と、視線と、言葉。彼の存在のすべてをつかって。

「……毒蛇……、クノさん。あなたに会えて、よかったです。……さようなら」

 ぼくはクノさんに、心の底から、深くお辞儀をして、ザ・サーカスを後にした。

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