07

静日

 店に戻ると、真っ先に表に駆け出てきた番頭さんに、いきなり殴り飛ばされた。敷石の土間に転倒すると、続けて足蹴りが容赦なく浴びせられる。番頭さんは無言だった。しかし、額や首まで真っ赤に血をのぼらせて、こめかみには青筋が走っている。

「馬鹿だねぇ、静日。自分から戻ってくるなんてさ……」

 昂奮しきった様子の番頭さんとは真逆の、落ち着き払った御上さんの声が降ってきた。番頭さんはぼくの髪を引っ張りあげ、上がり框に立った御上さんの前に、ぼくを叩き付けるように投げ出した。

「申し訳ありませんでした」

 ぼくは土間に土下座をする。下げた頭を、後ろからさらに踏みつけられた。敷石に打ち付けられた額が、鈍い音をたてる。割れるような痛みに、目玉がひっくり返りそうだった。

「お前は大事なうちの看板だ。許してやりたいのはやまやまなんだがね……。他の娼妓の手前、そういうわけにもいかないんだよ。……覚悟おし」

 ぴしゃりと言って、御上さんが踵を返す衣擦れの音が聞こえた後で、また髪を掴まれて立たされる。すでに自室に引っ込む寸前の御上さんは、もの言いたげな視線を、ぼくの包帯の巻かれた右手にちらりとあてた。使用人や用心棒の男衆の中にも、同じようにぼくの怪我を気にしている様子の者もいる。

 店から逃げ出したはずの男娼が、どこかで怪我の治療を受けて自ら帰ってきた、というのは、当然訝るべき事態だろう。いつもの番頭さんなら、ぼくを怒鳴りつけ、何事があったのかと厳しい尋問をはじめていておかしくない場面だった。

 それなのに、番頭さんはどうしたことか、静かに我を失っていた。ぼくを問いつめるどころか、叱ることすらしない。その異様な怒りの雰囲気が、店中の人間の口を塞いでいるのだった。

 廊下や中庭の掃除に出ていた一階の色子たちは皆、何も起こっていないかのように下を向き、黙って手を動かしていた。しかし少し注意して見てみれば、同じ場所を幾度も拭いていたり、掃き集めた塵をまた散らしたりしているばかりだと知れる。彼らが、掃除ではなくこちらの様子に集中していることは瞭然だった。

 番頭さんの先導で、左右を使用人に挟まれ、中庭を囲む廊下を進む。桜は、昨日の嵐でほとんど散ってしまっていた。ぼくは一階の奥の、物置のような部屋に連れて行かれた。そこでやっと、番頭さんが口を開く。

「お前らは下がれ。呼ぶまで来なくていい」

 使用人らによって扉が外から閉められると、窓のない部屋は真っ暗になった。すぐにカチリと音がして、部屋の中央から少しずれた所にある、小さな床置きの照明に灯が点る。

 ぼくは、薄く照らし出された室内の様子に、思わずつばをのんだ。

 照明のちょうど上あたり、天井の真ん中から、太い鎖が2本ぶら下がっている。大蛇のようなその鎖の先には、鉄製の手枷が取り付けられていた。コンクリートの床の上にも、同じような拘束具が2つ、とぐろを巻いている。この部屋唯一の家具である長机は、照明に一番近い、扉の向かいの壁際に寄せてあった。その上に並べられた、様々な形の鞭や責め具が、奇怪な影を壁一面に描き出す。

「静日……、着物を全て脱いで、そこに立て」

「…………はい……」

 番頭さんが指さした先はもちろん、2本の鎖の真下だった。ぼくは襦袢の腰紐に、指をかける。クノさんが結んだ紐は、とても固く結ばれていた。左手しか使えないので、解くのにかなり手間取る。

「何ちんたらやってんだ、早くしねえか!」

「は……、はい」

 焦ると、余計に解けない。結び目を必死で緩めていたら、涙が、目のふちにたまってきた。奥歯が震える。膝が震える。指が震える。こわい。死にたくない。

 生きたい。

 腰紐と一緒に、涙が落ちた。

 両手両脚でXの字をつくるような格好で、ぼくは部屋の真ん中に吊るされた。足は、親指だけで爪先立ちをするようにしか地面に着かなかった。そのうえ、両腕は後ろに捻りあげるような形で吊りあげられているので、体重のかかる手首と肩は早々に痺れてくる。本格的な責めがはじまる前から、ぼくの体は汗だくになっていた。

 番頭さんはぼくを打ち据えながら、「なぜ俺から逃げた」と、そればかりを叫んだ。彼の振るう鞭や木刀は、一振りで何重ものダメージをぼくに残す。直接打たれた皮膚はもちろん、関節や筋肉は殴打のたびに千切れそうなほど軋み、恐怖と疲労は、ぼくから声を奪った。

 けれど、「あなたから逃げたわけじゃない」と、番頭さんに本当のことを伝えなかったのは、それだけのせいではなかった。ぼくは番頭さんに誤解されたままでも、全然平気だったのだ。例え一生誤解されたままだったとしても、悲しくも、口惜しくもない。何年も、誰より密にからだをつなげた人だったのに、番頭さんとぼくには、分け合うものが何もなかった。

 何もない。今のぼくには、分けられるものが、何もなかった。この右手の、治療費も。

 御上さんに、ぼくを助けてくれたのが『毒蛇』だということさえ伝えられれば、最悪ぼくが死んでも、店を通じてお金は返せるだろう。そう考えて、ぼくはクノさんに、どんなことになっても必ずお金は返すと約束したのだ。このまま死んだら、ぼくは、嘘つきになる。迷惑だけ掛けて、恩人に嘘をついて逃げるなんて、そんな最低なことだけは絶対にしたくなかった。

 ぼくは、残っている力の全部を使って、そのことを番頭さんに伝えようとした。けれど、何度声を振り絞っても、ぼくを痛めつけて叫び続ける彼の耳に、ひからびたぼくの言葉は届かなかった。

 項垂れたぼくの視界を埋め尽くす、コンクリートの床には、流した汗と血が散っていた。かすむ目にも、その染みが、どんどん増えていくのが見える。それで、思いついた。血で、文字を残せると。

 ぼくは左足に体重を載せ、わずかに動かせる右足の親指の先を、小さな血だまりに浸した。それからの、永遠に抱かれた短い時間。ぼくの体は、痛みも疲れも飛びこえて、その文字を綴るための完全な道具になった。

『ぼくは毒蛇に借りがあります』


 次に気が付いたときには、違う場所にいた。からだに、外の風を感じる。きっと、中庭の桜の木に、縄で括りつけられているのだろう。視界は針の穴ほどもなく、何が見えているのか、今が昼か夜かすら判断できない。

 あれから、どれくらい時間が経ったのだろう。数時間か、数日か。もっとか。ぼくは死んだんだろうか。だが、胸に食い込む縄のせいで呼吸がやりづらい、と思う。おまけに体じゅうが痛い。どうやら、まだ生きてはいるようだった。

 ここが中庭の桜の下なら、正面に、ぼくの暮らしていた部屋があるはずだった。もう、新しい子が入っているのだろうか。以前のぼくがそうしていたように、今頃窓辺から、無感情な人形の目をぼくに向けているだろうか。

 ――でも、大丈夫。君も、大丈夫だよ。

 ぼくは、大丈夫だと伝えたかった。窓辺に立つ、過去の自分へ。そして、今を生きている仲間へ。死んで、焼かれて、風になったら。風じゃなくても、雨でも、大地でもいい。ぼくは触れて、伝えたい。

 だいじょうぶ。

 どうしても、信じられなくても、君は人間なんだ。

 ぼくを人間だと言ってくれた、赦しの、肯定の、黄緑色の安心。ああいうものを降らせたい。だいじょうぶだよと、世界中の、ぼくらの上に。

「お前の名前は?」

 空気に混じりかけていたぼくの意識が、その声によって、一気に身の内に戻ってきた。胸のつかえがなくなって、急に呼吸がしやすくなり、体が、柔らかな心地良いものに包まれる。それと同時に、体の痛みもよみがえってきた。全身が、とにかく全身が痛い。

「自分の名前、言えるか?」もう一度、訊ねられる。

「………………静……日……」ぼくは、答えた。

「静日。俺がわかるか?」

「…………っ、…………………ノ、さ……」

「そうだ」

「ク……ノ…………さ……、…………たす、け…………」

 ぼくは言った。雨でも風でも大地でもない、ただの人間に戻って、言った。まだ、生きている、ぼくの望みを。

「……しにた……く…………、ない………………!」

「なら、わざわざ来た甲斐があった」

 その声と共に、体が抱え上げられた。お見送りを、と遠くから掛けられた声は、御上さんのものだった。必要ない。クノさんの低い声が、耳もとに聞こえた。

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