ONE DAY 02

スイ -SUI age 34-

 肖の癇癪のせいで、煙草を吸い損なった。

 追い出された扉の前で、蹴られて痛む尻を撫でる。廊下の突き当たりに広く取られた、嵌め殺しの窓から射し込む陽光は、夕方の濃い黄金色に染まっていた。ひとり寂しく飯を食うのは好きじゃないが、この時間じゃ団員の誰を誘っても無駄だろう。諦めて1人で食堂に行くことにして、俺は窓に背を向け、エレベーターホールの方へ足を踏み出した。

 この3階には、スズと綾を除いた、ザ・サーカス正団員全員の部屋がある。織絨毯敷きのゆったりとした廊下には、マホガニーやチーク材でつくられた贅沢な扉が、ゆったりと間隔を開けて並んでいた。少しずつデザインの違うそれらの扉にはまた、それぞれに意匠を凝らしたネームプレートが付けられている。肖、リリー、吏蝶。今まであまり気にして見たことがなかったが、リリーのプレートには百合の、吏蝶のには蝶の模様が刻まれていた。まさかと思ってその先の紅菊という団員のネームプレートを見ると、やっぱり菊の花を図案化した模様がある。そのまんまだ。苦笑しながら、T字の廊下を左折しようとしたところで、ちょうどこちらに曲がってこようとしていた人間とぶつかりそうになった。

「っと、悪い」

「ごめ……、あ、スイ。お疲れさま」礼儀正しく一礼したその団員の、真ん中分けの金の髪が、輪っかをつくってきらめいた。1階のリネン室から取ってきたばかりなのだろう、きっちりと畳まれたシーツを数枚、胸の前に抱えている。

「おう、お疲れさん」リリーは、俺に道を譲ろうと、すぐに体を横にずらした。その瞬間に、膝が折れて、体勢が崩れる。「だいじょぶか?」俺は咄嗟にリリーの背に腕をまわして、細い体を支えた。リリーは、俺の腕の中で身を強ばらせ、「ごめんなさい」と聞き取れないくらいの掠れ声で言った。顔を伏せる。その額には、じっとりとした汗の流れができていた。具合でも悪いのだろうか。何となく嫌な予感がする。そしてこの類の予感は、当たりやすいのだ。

「……リリー、俺、今すっげぇ煙草吸いてぇんだけどさ。お前の部屋、寄ってっていい?」半ば強引にリリーを伴い、来た道を戻る。どうしたというんだろう。リリーの歩みは、絨毯に足を絡めとられているかのようにもどかしかった。

 ついさっきまで居た肖の部屋の、ひとつ手前がリリーの部屋だ。扉を閉めて向かい合うと、彼の様子がおかしい理由はすぐにわかった。細身のカーゴパンツの前が張っているのだ。脱がせてみると、緩く勃起したペニスの先に、銀色のリングプラグが嵌まっていた。プラグは、尿道に根元までぎっちりと差し込まれている。

「お前、いつからこんなことやってんだ?」

「朝……泊まりのお客さんが、帰る前に……、今夜までつけておくようにって……」

「んな馬鹿なこと馬鹿正直に守る馬鹿がいるか!」

 怒鳴りつけて、俺はリリーを便所に引き摺って行った。苦しそうに歪む表情に、そんな場合じゃないのにぞくっとくる。

 リリーの顔面と尻とベッドでの仕事ぶりは、まるで男の欲望を引きずり出すためだけに存在する、淫らな悪魔だ。なのに、中身は誰より控えめで、正直者ときてる。入団した2年前からそういう奴だったが、正直もここまでくるとバカの枕詞かもしれない。

 中蓋を上げた便器の前に立たせて、俺はその横にしゃがみ込んだ。器具に犯されて膨らんだ、リリーのペニスを手に取る。

「あの、おれ、自分で、」半泣きのリリーが、俺の手に震える手を重ねてくる。

「こんな力の入ってない手で外せるか」俺は重ねられたリリーの手を、やんわり除けた。ポケットの中にあった個包装のローションの袋を破って、リリーのペニスの先にたっぷりと垂らす。まずは、括れに引っ掛けられたリングを外さねばならないのだが、勃起しているせいで、なかなか上手くいかない。ローションをさらに注ぎ足して、何とかリングが雁首を抜けた。

「……ッ、ふ……」苦しそうな息づかいと共に、俺の頭に何かが落ちてきた。見上げると、リリーの赤い頬には涙の伝った痕があった。俺の視線に気づいて、それを慌てて拭っている。

「大丈夫。すぐ終わるから、もうちょっとだけ我慢な」俺は言って、尿道に埋まったプラグも、ゆっくりと、一定の速度で引き抜いた。「…………ッ、……っうふ、」

「朝から我慢してんだろ、早く出しな」たちあがったままのペニスの向きを、手で押さえて調整してやる。しかしリリーは、むずがるように首を振った。「で、……出、な……、」

 どうやら我慢しすぎて、自力で排尿できないようだった。背後にまわって下腹を押す。リリスはびくりと身を捩らせ、つらそうに喘いだ。指先に違和感がある。覗き込むと、腹に、いくつかのみみず腫れが走っていた。まだ真新しい、鞭の痕だ。

「悪ぃ。だいじょぶか」

「……はい、」

 俺は寝室に戻り、備え付けの冷蔵庫の中から取ってきた、ミネラルウォーターのペットボトルをリリーに渡した。「飲んだらたぶん出るから。全部出すまで戻ってくんなよ」リリーが頷いたのを見届けてから、俺は外から戸を閉めた。

 洗面所で手を洗っている途中で、長いため息が出る。顔を上げると、鏡の中には、眉間に深い皺を刻んだおっさんの顔があった。とりあえず、両手で丹念に皺は伸ばしておく。

 勝手に灰皿を出して、応接間のソファに体を投げ出した。目を閉じて深く味わう、やっとありつけた煙草は格別だ。タール6ミリ。最近、13ミリからこれに変えた。クノが昔吸っていたのと同じ銘柄のものだ。

 クノと同じ。そう考えたら、俺はもう、自分が初めて会った頃のクノと、そう変わらない年になっているのだった。とても信じられない。そしてリリーは、その頃の俺と、ほぼ同じ年なのだ。

 俺はあの頃のクノのように働けているだろうか。クノが俺に与えてくれたものを、リリーや肖、若い団員たちに、ちゃんと繋げていけてるだろうか。どう甘く見積もっても、否だ。あの頃のクノが、我が国の国王陛下並みの期待と重責を背負って、それに応えていたとするなら、俺なんてせいぜい、どこぞの小学校のクラス委員程度の責任と貢献率しかないに違いない。

 トイレの水の流れる音が、俺のマイナス思考を中断させた。シャワーをつかう音も聞こえてくる。数分後、リリーはバスローブを着て戻ってきた。

「スイ、ごめんなさい、迷惑かけて」

「いっぱい出たか?」

「う、……はい…………」俯いたリリーの、髪を引っ掛けた耳の先が、赤く染まる。俺は煙草をねじ消して、言った。「なぁ、リリー。お前は今、勤務時間なのか?」

「違うけど、デビューからずっと贔屓にしてもらってる方だから……、自分の判断で……」

「そうか。でも、もっと楽なやり方があるだろう」客が来る少し前になってから死ぬほど水を飲んでおいて、その後でプラグを嵌めて迎えれば、昼間にそれを外してたかどうかなんて客には解りっこない。そう言ったら、リリーは目と口を丸く開けて、「あ」と声を出した。本気で今それに気づいたという反応だ。俺はあきれて、鼻から息を吐いた。

「ほんとに、すみません。これからは、気をつけます」消え入りそうな声に、俺はどうにもやりきれない気持ちになる。リリーが客の言うことを鵜呑みにして、とんでもない要求でも当たり前のように受けてしまうのは、単に彼が真面目でお人好しだからではない。

 過去が、リリーから思考することを奪うのだ。

 ロスと共にザ・サーカスに逃れてきた2年前まで、リリーにとっての生きることとは即ち、隷従することだった。両親や客や街のギャングたち。彼を虐待し、搾取する者たち全てを受け入れることで、リリーは命をつないでいた。生まれてから15年間のほとんどを、彼は自分が虐待されているということすら知らずに、当然のように虐げられて過ごしてきた。

 ここへやって来て、2年。少年時代の2年は長い。けれど、それまでの15年で染みついた隷従の悪習を断ち切るには、短かすぎる年月だろう。

 彼はただ、被虐に浸かるしかない生活の中で、それに慣れきってしまっただけだ。被虐的な人格を捏造して楽しんでいる俺とは違う。

「お前知ってる? うちには、年間契約結んだ特上客を相手に、たった1度しか体を許さなかった強者もいるんだぜ」

「え、そんなこと、……ほんとに……?」

「最近、専属契約が明けた奴がいるだろ」

「静日さん……?」

「そ。とんでもねぇだろ。俺でもそんな凄ぇ真似できねぇよ」

 話しているうちに、リリーの瞳や頬に、少しずつ元気が戻ってきていた。俺はその若い頬を、手の甲で擦るように、ぐいっと押し上げる。歯をこぼして、リリーは笑った。

「お前も、楽しくやっていいんだ。仕事なんてさ」

 祈りを捧げるような気持ちで、しかし無駄話の延長のような軽さで、俺は言った。

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