07

Laugh and be fat.

 翌朝の食堂で、アヤカは、公園の少年が『神』と呼んだ、《毒蛇》ことクノと、対面した。

 クノは、明るい窓際のテーブル席で、リング状のパンを半分に切ったものに、ハムとチーズと野菜を挟んだサンドウィッチを食っているところだった。

 スズが昨夜言った通り、向かいの席には綾もいる。彼の前にあるのは、ミルクでふやかした、ドライフルーツ入りのシリアルだ。アヤカは、シリアルなら、歯ごたえのある内に食べるのが好きである。そんな食べ方をする奴とは、根本的なところで合わない気がするが、ともかく、昨夜のことは、後で謝らなければなるまい。アヤカは、やっぱり納得いかない、という思いを散らすように、先導するスイの陰に入って、ふうっと息を吐いた。

 前を行くスイの、ブラックスーツの背中のライン、そして体の動きによって生まれる皺は、これを仕立てた職人の技術の高さをアヤカに教えるのに、じゅうぶんなものだった。合わせてあるのは、ロゼのスパークリングワインみたいな色をした、絹のドレスシャツ。髪は軽く後ろに撫でつけてある。昨晩見た、チンピラじみた格好とは大違いだが、こっちの方が、普段の彼なのだろうか。

「クノ、これ、昨日の奴なんだけど、見習いとして雇っていいと思う」スイがそう言って、クノの座っている真横に、アヤカを押し出した。

「レハーさんのお墨付きなんだって?」アヤカが挨拶をするより早く、食事の手を止めたクノがそう言って、アヤカを見上げた。

 目頭の切れ込んだ、蛍光色のようにさえ見える、黄みの強い緑の瞳。アヤカは、それに一瞬、釘付けになる。迫力に圧倒されたとか、そういうことではなく、単純に、これまでに見たことのない目の色だったからだ。

 それ以外については、案外、普通のおっさんなんだな、というのが、《毒蛇》に対する、アヤカの最初の感想だった。いや、その容姿に限って言えば、それはもちろん、普通ではない。そこいらのおっさんなどとは比べようもない、色男だ。けれど、ロデム博士が、その人生の最期にただ一人頼った相手であり、路上の子供たちから『神様』と呼ばれる男にふさわしい、特別な気配だとか、存在感のようなものは、残念ながら感じられなかった。後光が射しているようなこともなければ、怯み上がるような凄みもない。

 しかし、どこかで見たような顔だ。アヤカは、そのことの方が気になった。心の半分くらいはまだ、誰か似ている俳優がいたか、などと考えながら、アヤカは、クノの前で姿勢を正して、一礼した。「初めまして。アヤカ・ロデムと申します」

 頭を上げると、クノの顔つきが、それまでとは全く変わっていた。彼は、アヤカの顔を凝視したまま、椅子から腰を上げた。

「ロデム博士の、ご子息ですね。……では、博士は、やはりもう……」

「はい」反応が早い。やはり、普通のおっさんなんかではないようだ。アヤカは、見上げる位置になったクノの目を、真っ直ぐに見つめた。「僕は、父であるアキラ・ロデム博士の最期の言葉を聞いて、ここまで参りました。昨晩はお騒がせしてしまい、まことに申し訳ありません」

 アヤカの言葉を聞いて、スイは「あっ」と声を上げた。「ロデム博士って、あれだろ、軍で例の……」

「俺は今クノさんと話してんだ」アヤカは、スイに最後まで言わせず、横目に相手を睨みつけた。

「その通りだ、スイ。お前は黙ってろ」クノもぴしゃりと言う。

「うぇーす……」うなだれて、近くの椅子に座ったスイをろくに見もせずに、綾はくつくつと笑っている。スイは腹立たしげに脚を組むと、頬杖をついて、そっぽを向いた。

「博士は僕に、この地上で信頼できる人物は、あなたの他には存在しないと、言いました」アヤカの口調は、非常に落ち着いていた。《毒蛇》に会って、父の言葉を伝える。それは、この店に辿り着くまでの間に、頭の中で、何度も繰り返し練習した場面だった。じゅうぶんに練習した何かを本番で失敗したことは、これまでに、一度もない。「あなたとは、同志であったと」

「志が重なったのは、ここ数年のことですが、博士とは、あなたがお生まれになる以前からの、古い付き合いでした」クノは、そこで言葉を区切って、息を吸った。「いつ、お亡くなりに?」

「……ニュースには、なっていないのですね?」アヤカは訊いた。

「一家が行方不明であるという報道を、一週間前に見たきりです」

「…………その日に、両親は、自ら死を選びました。都心から東に、三、四時間の、山の方……」

「別荘地の辺りですか?」

「そうです。僕も最初は、別荘に行くものと思っていました。落ち込んでいた博士の気を紛らわせるために、母が提案したのだろうと……。けれど、そうじゃなかった。父は、途中の山道で、車を停めました。崖のすぐ脇で、車通りはほとんどなかった。下には沢が流れていたと思います。僕はそこで、両親から、それぞれの考えを…………聞いて……、……両親とは、違う道を、選んだんです。僕が車を降りて、じゅうぶん離れてから、両親が乗っていた車は火を噴き上げて、崖の下へ落ちました」

「そのようなニュースは、私は見かけませんでした。誰か、知っているか?」後半を、食堂全体に頸をめぐらしながら、クノは言った。そこにいた少数の団員たちは、それぞれ顔を見合わせたり、自分の記憶を辿るように目を上向けたりしている。厨房から、コックの女性、和(かず)が、「西部版の新聞にも出ていなかったと思います」と、控えめに答えた。

「そんな……」アヤカは、無意識に呟いていた。東部にいて、西部版の新聞までチェックしているような人が、見覚えがないというなら、それはおそらく、報道されなかったのだ。そのことの意味を考え、アヤカは一度、きつく目を閉じた。

 ロデム夫妻が車ごと落下していった崖は、舗装された二車線の道路から脇道に入って、ほんの十数メートルの位置にあった。そこから駅まで、アヤカの足でも三十分強で辿り着けたし、沢向こうの山腹には、立派な別荘も、いくつかはっきりと見ることができた。車があれだけ派手に燃え上がって、黒煙ももうもうと立ちのぼっていたのだから、誰にも発見されなかったとは考えづらい。

 最初から、父が、まだ明るい時間に帰ってきたときから、アヤカは、頭のどこかでは、おかしいと、わかっていた。ロデム博士は、全てを自分の罪として、抱えて逝った。けれど、そんなことがあるだろうか。ロデム博士の研究に金を出していたのは、他でもない、この国だ。血税を注いでいたという事実は、王国軍、ひいては軍を統べる国王その人が、博士を必要としていた、その証ではないか。

 博士が、死ななければならないほどの過ちを犯したというのなら、それを支援していたこの国だって、死んで詫びるべきだ。博士の稼いだ金で生活をしてきた自分だって、本当は、死ぬべきだったろう。

 そんな、極端なことまで考えだしてしまう。波打ち、泡立つ激情を、アヤカは、抑えなければ、と強く思った。しなければならない話は、まだ、終わっていない。瞼を持ち上げる。こちらを見ている黄緑色の目と、目が合った。

「僕は、博士に起こった全てのことを、理解しているわけでは、ありません。ですから……、どうしても、死ななければならなかった父の……ロデム博士の、背負っていたものを、あなたにお預けすることは、とても、気が引けます」

「それはつまり、博士があなたに預けた荷物の、受け取りを拒否する権利を、私に下さるということですか」丁寧なクノからの質問に、アヤカは、頷いた。

「きっと、重い荷物だと、思うのです。少なくとも、博士と、母の命が、かかっている。でも、あなたは……」ぐるりと、アヤカは食堂の全体を見渡した。綾以外の全員が、アヤカの方を見た。みな、真面目な顔をしていた。「もうすでに、大きなものを、背負っていらっしゃるように、お見受けします。本当ならこれは、僕が背負ってゆくべきものです。もっと言うなら、……死んだ人間の残したものなど、果たそうと、無駄にしようと、……それを報告する相手はもう、いない……」

 何という、冷酷なことを、言っているのだろう。アヤカは、喋りながら、そう思った。冷酷だと思うのは、それもまた、彼の本心であるからだ。死に追い込まれた両親の遺志を、どうにかして伝えたいと思って、こんな場所にまでやってきたのは、自分。死にたがっているのも、全部殺したがっているのも、自分一人を残して勝手に死んだ親を、恨んでいるのも、やっぱり、自分。アヤカという一人の形の中に、同時に存在する思いだった。

 意識して、ゆっくりと呼吸をし、アヤカはまた、感情の大渦にさらわれそうになる自分を、立て直す。それを待っていたように、クノが、口を開いた。「一つ、お訊ねしても?」

「はい」

「あなたは、ロデム博士の遺志を私に伝えるために、生きることを選ばれたのですか」

「違います」アヤカはすぐに、答えた。「僕が生きることを決めたから、博士は、それを僕に託したのです。順番が、違います」

「承知しました。ロデム伯爵、」

「…………は、……?」アヤカは、呼びかけの意味が瞬間解らず、目の前の男を見返した。クノは、変わらぬ静かな顔で、アヤカを見ている。自分への呼びかけだったのだと、アヤカはやっと、理解した。「……いえ、僕は、伯爵では、ありません。家は、ロデム伯爵家は、もう……」

「あなたは、ロデム家の当主にふさわしい、立派な方です。博士によく似た、気持ちのよい頭脳をお持ちのようだ。容貌や口調は、マイア様の気品を受け継いでらっしゃるようですが」

「……恐れいります。でも、……よく、言われます」アヤカは、微笑んだ。クノも、目もとを眩しそうにした。

「どうぞ、私に、お父上のご遺志を、お聞かせください」クノが言う。アヤカは、喉をきゅっと緊張させるようにして、頷いた。

「ここに、自分の犯した罪の全てがあると……」アヤカは、机上に、人さし指を、置いた。クノが見ているのを確かめてから、指先を動かす。父親から伝えられた、最期の言葉を、そこに書いた。「時が来るまで、あなたに、これを守ってもらいたいというのが、博士の、遺言です」

「確かに、受け取りました」クノは、アヤカの指が動いた辺りを、瞳孔の開いた目でじっと見つめてから、言った。顔を上げて、今度はアヤカの顔を見る。「あなたは、博士の言う『罪』について、何か、ご存知ですか」

「い……いえ。……でも、想像はつきます。博士が、軍でおこなっていた研究に関すること、でしょう」アヤカは、そこでちらりと、澄ました顔で食事を続けている綾に、視線を遣った。クノはそれを見逃さなかった。僅かの間、何かを計算するように、目を伏せ、すぐにまた元通りの姿勢に戻る。

「住む場所は、こちらでいくつかご用意できます。しばらくは、不自由かもしれませんが、安全を優先して……」

「僕では、この店で働くのに不足でしょうか」アヤカは、一歩、クノの前に近づいて、言った。

「あの男が、」クノは、アヤカの斜め後ろに座っている、スイを示す。「こうして、あなたの為に動いたのですから、不足ということはありませんが、……ロデム博士に怒られてしまいます」

「申し上げたでしょう、死人に口なしです。僕は、父の遺志を受け取ってくださった方に、これ以上、迷惑をかけたくありません。僕にできる唯一の親孝行は、父と同じ志を持つあなたの、お手伝いをすることだと、思います。お願いします。僕をこの店で、働かせてください」アヤカは、深く、頭を下げた。

 肩に、そっと、手が触れる。「では、あなたの尊い心に、甘えさせて頂きます」その言葉に、アヤカは顔を上げて、安堵の息を吐いた。

「ロデム博士には、あの世で謝罪することに致しましょう」クノは言って、苦味のほのかに混じった顔で、微笑った。

「そうして頂けると、ありがたいです」アヤカも微笑む。

「もう一つ、大変な失礼を申し上げますが、この店では身分の別なく、皆が同じ団員として暮らしています。今後は伯爵のことも、私の店に所属する一団員として扱わせていただくことを、お許し頂けますか」

「はい、もちろん。スイには、もうずいぶんな口のきき方されてるんで。団長にだけ敬語使われるのも、ちょっと、アレだし」

「では……、あなたの意思と覚悟、そしてしばらくの人生を、わたくし、クノ・ハハキ・タブリが、ザ・サーカスの団長として、預かり受けます」クノが、手を差し出す。

「よろしくお願いします、……クノさん」アヤカは、その手を握った。なめらかで、大きく、あたたかい手だった。

「指導団員は、おまえでいいな?」クノはスイの方に顔を向けて言った。

「伯爵様のお許しがあればね」とスイは茶化す。それを無視して、クノはアヤカに視線を戻した。「学校は、王立大附属の中等部?」

「いえ、高等部2年です。飛び級で」

「勉強が得意なのか。よかったら、先生をやってもらえると助かるんだが」

「先生、ですか」

「ああ。うちの店には、義務教育を受けてない団員も多いんだ。見習いの内は給料制で、みな、自分にできることをやってもらってる」

 アヤカがそうして、クノからの質問に答えたり、逆に質問をしたりしている間も、向かいの席では綾が、ふやけたシリアルを、そこだけスローモーションでもかかっているような速度で食べていた。人と会う約束があると言って、クノとスイが連れ立って先に退席してからも、アヤカのことなど無視して、食事を続けている。アヤカは気まずいながらも、さっきまでクノのいた椅子の、隣の椅子に腰掛けた。

「昨日は、悪かったな」ぶっきらぼうに、だが、はっきりした声で謝ると、綾は、「なに。らしくないね」と顔を上げもせずに、吐き捨てるように言った。昨日は気付かなかったが、華奢でキラキラした見た目の割りに、落ち着いた太めの声をしている。

「らしく、って何だ。おまえが俺の何を知ってんだよ」

「考えなしで無神経な世間知らずのわがままお坊ちゃま。これで全部だろ」

「謝られたって仕方ないだろうけど、わがままなお坊ちゃんだって反省くらいするんだよ」カチンときたが、綾の態度が妙に子供っぽく思えて、アヤカはちょっと余裕を見せて、そう言った。綾がようやく、視線をちらりとだけ、アヤカに向ける。「どうせゆうべは、スイにこっぴどくやられて泣いたんでしょ。それでチャラにしてやるよ」

 たぶん、目が腫れているせいで、勘付かれたのだ。今朝、鏡を見て、自分でもひどい顔だと思ったが、その後、スイにも同じ指摘をされたので、間違いない。目もとを隠すように、前髪をいじりながら、アヤカは言った。「おまえ、初めてケツやられたときのこと、覚えてる?」

「全然」綾は無表情に答えて、ふよふよのシリアルを口に運ぶ。

「うらやましいぜ、クソったれ」アヤカは、冗談めかして、言った。

「……いい気味」そう言って綾は、そこで初めて、笑った。今までの、ツンケンした嫌な奴というイメージを、一瞬で吹き飛ばすような、かわいい、思わず見とれてしまうほどかわいい、笑顔だった。その笑みがまだ残っている顔で、「おまえ、飯食わないの」と言ってくる。

「あぁ……、うん」アヤカは、厨房の方に目を逸らした。気づいた和が、うふふと笑う。綾はそちらに身を乗り出した。「和さん、何か知ってるでしょ。こいつまた何かやらかしたの?」

「違うの、やらかされたの。アヤカ、3日もろくに食べてなかったらしくて、昨日の夜中にスイがね、捨てるために凍らせてた腐りかけのリゾットをそうと知らずにチンして、」綾の目が、アヤカに向く。「……食べたんだ」

「うまいうまいって泣きながらな」アヤカは苦い顔で言った。その事件のおかげで、アヤカは明け方までトイレで過ごす羽目になり、今やスイの部屋の便器が一番の親友だ。薬と栄養剤の点滴で何とか回復しているが、朝から食事をするほどの元気はない。

 と、いうのに、綾はまったく遠慮なしに笑った。腹を抱えて机を叩き、そのうち今度は反り返って、笑いすぎて痛くなったらしい自分の腰を叩いている。そこへ、おっはよー、と明るい声が響いて、スズが入ってきた。彼はアヤカを見つけると、「あっ、アヤカ!」と満面の笑顔になって、駆け寄ってくる。

「みてみて、俺勝ち組の5割だった」そう言ってスズは、持ち上げた自分の顎を指さした。なめらかな肌には、少しの痣もついていない。よかった。というアヤカの声をかき消したのは綾だ。「スズ、ちょっと聞いて、こいつほんとおもしろい」

「え、なになに聞きたい」スズはアヤカの隣に腰掛けた。

「メシどきにする話じゃねぇだろ!」アヤカが止めるのも聞かずに、綾はどんどん話しはじめる。スズは笑いながらも、アヤカの心配をしてくれた。そのうち和が、スズの朝食を運んでくる。卵とバターのいいにおいがアヤカによだれを垂れさせて、笑い声が重なる。

 アヤカはそこでふと、地面から少し浮き上がったような、変な気分になっている自分に気付いた。目に映るのは、見慣れぬ食堂と、昨日今日会ったばかりの、見慣れぬ人々。そんな彼らと、朝の時間を過ごしていて、これから先も、共に暮らしてゆく。

「あの、」大きな声でアヤカが言うと、3人が同時に彼の方を向いた。つばを飲んで、アヤカは、姿勢を正す。

「これから、よろしく、……お願いします」すると、6本の腕が伸びてきて、アヤカはぎゅうぎゅう抱きしめられ、髪をぐしゃぐしゃに掻き回された。スズの「よろしくね」と、和の「こちらこそよろしく」と、綾の「よろしくしてやる」が、ばらばらに返ってくる。

 俺はここで、生きていきます。

 アヤカは心の中に青空を思い浮かべて、そこに漂う雲の上で、苦しいことからもつらいことからも、すっかり解放されて、にこにこ笑っているはずの両親に向かって、地上から、そう伝えた。新しい家族と笑って、揉みくちゃになって、アヤカは笑いながらほんの少しだけ、泣いた。


(了)

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