01
6月の雪の日
移動娼館ザ・サーカスにぼくが入団して、そろそろ、2ヶ月が過ぎる。入団後、2度目の移動で訪れたのは、極北西部の美しい古都。ここは、この国で最も緯度の高い街だ。6月だというのに、長袖の上にセーターを着て、更にジャケットを羽織らねば外に出られないほど寒い。
と、最初、ぼくは勘違いをしたのだが、この寒さは緯度のせいではなく、今年の異常気象のせいらしかった。
午後2時過ぎの食堂は、いつものように、まだ人が多い。けれど、窓の外の珍しい光景に皆が目を奪われていて、落ち着きのない、浮き足立った感じが、部屋の空気を軽くしているように感じられる。
本来なら、駐車場の灰色が広がっているはずの窓の外は、見渡す限りの白で覆われていた。昨日の昼ごろから降りだした雪は、今も、ちらついたり止んだりを繰り返している。雲間からたまに太陽が顔を覗かせると、外は真っ白に輝いて、目を開けていられなくなるほどだ。
「すごい……、ですね。ぼく、こんなに雪が積もっているところを見たの、初めてです」
「おまえの店があった辺りは……そうだな、あの辺も冬は割と寒いけど、雪は少なかったか」
ぼくの呟きに返事をくれたのは、向かいの席にいる嬰矢(えいし)さんだった。ぼくも彼も、すでに食事は終えて、窓の外を眺めながら、緑茶を飲んでいるところだ。
「ええ。積もっても、うっすらで」
「……なぁ、静日(しずか)さぁ、――――って、経験ある?」
嬰矢さんはこんな感じで、脈絡なく、話を変えることがよくある。ぼくの耳もとで、特に声を潜めて囁かれた単語は、食事の席で他者の耳にはあまり入れたくない類のものだった。
「何度か」正直に答えると、嬰矢さんは、目を丸くした。「マジか。おまえのいた店、まともな客ばっかりだって聞いてたんだけどなぁ」
「そんな娼館、現実には存在しないと思いますよ」
「まぁ、そりゃあそうかもだけどさ……いや、実は俺、昨晩初めてそれ頼まれだんだわ。で、さすがに……だってよぉ、わかるだろ? この店の客って、お行儀の良い人が多いんだよ。つうか、行儀の悪いプレイが好きな客は、それに対応できる団員を選ぶのが暗黙の了解、っていうかさ。俺なんて特に、最初の客が、全紳士の憧れって感じの貴族だったもんだから、そのツテで来る客がいまだに多いわけよ。だからなんかもう、面食らっちまって、対応がうまくなくてさぁ、久々にクレームついちまって……。あーあ、俺もまだまだ青いぜ。てなわけだから、明日の午後の訓練は女子に任せるわ。おまえ、抱く方はそこまで経験ないっつってたよな?」
「はい」
「うちは結構、男でも、抱かれたい側の客も多いんだ。クノさんが現役のいいとき、ほとんどタチだったせいだと思うけど。それにおまえみたいな、奇麗に整ってるけどちゃんと男らしい、って感じの団員も今までいなかったから、案外、女性客狙える気がすんだよな。あ、でもおまえって、女は大丈夫なんだっけ?」
「……わかりません」
「わからない?」
ぼくは頷く。「女性のお相手は、特別なお客様をたまにお迎えするくらいで、本当に数えるほどしかな、……」
こちらに近づいて来る柔らかな気配を感じて、ぼくは口を噤んだ。視線を上げると、予感的中、コックの和(かず)さんが、紅茶茶碗を両手で大事そうに持って、ぼくらの席に向かってきていた。目線は茶碗と足先を行ったり来たり、真剣な表情だ。
和さんは、かなり近くまで来てからようやく、ぼくの視線に気づいて、微笑んだ。その瞬間、ぼくの心音は、そこらじゅうに聞こえたんじゃないかというほどに、力強く鳴った。それが全身に広がって、腹や頬、二の腕の外側なんかが、カァッと熱くなる。
笑われるかもしれないけれど、ぼくは毎回、視界に和さんが現れるたびに、こうなってしまう。そして、こんなことを、思う。
こんなに美しい人が、いるんだな。ぼくが生まれたときにはもう、世界は、この美しい人が存在する、世界だった。和さんのいる世界。彼女が呼吸をして、微笑んで、泣いたりもしてきただろう、世界。ぼくの知らない、見たことのない顔が、まだまだたくさんあるに違いない、和さんという、人間。
彼女が生きているのだから、きっとこの世界は、人間は、捨てたものじゃないはずだ、……なんて。大仰すぎるだろうか? だけど、本当にそう思う。
「これ、このまえ言ってた発酵茶なんだけど、思ったより熟成がうまく進んだから飲んでほしくて、」和さんはそこまで言うと、「うふふ」と笑みを深くして、持っている紅茶茶碗に目線を落とした。
「張り切って注ぎすぎちゃったの」慎重な手つきで、ぼくの前に茶器を置く。なみなみと、ふちのすぐ下まで注がれた黒っぽいお茶の水面が、まろやかにさざ波をたてた。
「ありがとうございます、和さん。いただきます」
「どうぞ」
そろそろと持ち上げ、お茶に口をつける。その間に、「俺の分は?」と嬰矢さんの声。
「あなたこれ嫌いだって言ってたじゃない。変なくせがある、って」
「え、これこないだと同じやつなの? におい全然違うけど」
「そうねぇ、たぶんなんだけど、この前のやつはちょっと腐ってたのかも」
「またかよ! 色々新メニュー挑戦すんのはいいけど、せめて口に入れても害はありません、って最低ラインくらい守ってよね……」嬰矢さんは顔を覆って泣きまねをしている。悪びれず、和さんは「うふふ」と笑った。
「すごく、美味しいです。味に段階がある感じで……いえ、重層的、って言った方が正確かな。最後に香ばしさが鼻に抜けて、後味も、とてもいい……」そう感想を言って、ぼくはもうひとくち、黒いお茶を啜った。
「うふふ、嬉しい。私のつくったもの、そうやって言葉で表現してくれるの、今まで、レイちゃんくらいしかいなかったの。今度から、大人好みの味付けのものは全部、静日に試食してもらおうかしら」
「ぼくでよければ、いくらでも」食い気味のぼくの返事に、和さんは「うふふ」と笑ってみせた。
別の席から注文が入って、彼女は調理場に戻っていってしまう。嬰矢さんがこちらをじいっと見ているので、お茶が欲しいのかと思って差し出そうとすると、片手を立てて不要だという格好をした。
「何ですか?」
「いや、おまえ、女全然いけそうっていうか、根っこの部分、ストレートなんじゃねぇのかな、って」嬰矢さんはそう言って片目を瞑る。「何か、同類の感じしないもの」
「……そうでしょうか」
「まっ、俺の勘は信用ならないけどな」
「嬰矢さんは、ゲイなんですか?」
「や、俺はもう完全な両刀。10:10の両刀なの。おっぱいも一物も大好き。仕事じゃあ、男の相手する方が断然多いけどな」
「体の意味では、ぼくもそのつもりなんですけど……」
「でもおまえ、まだ若いし、自分で自分の性情判んないのなんてフツーだよ。俺も、自分が男と同じくらい女も好きになれんだって気づいたの、25過ぎてからだった気がするし」
「そう、なんですか」
「俺って、何でも遅いのよ。だってこの店入ったの、19ン時だぜ。大学1年。その直前まで、童貞のバックバージンで、恋人いない歴=年齢だった。さらに実家暮らし」
「……それで、どうして男娼に……?」
「ちょっとしたパーティで、クノさんにスカウトされたんだ。おまえは? どうやって男娼に……って、あー、もし訊いてもいいなら、だけど」
「大丈夫です。ぼくは、ほんの子供の頃から男娼宿の下働きをしてて、客はさすがに付けられませんでしたけど、仕込みも兼ねて、店の人のお相手を結構早くからしてたんで、……たぶん、7つとか、そのくらいの頃が、初めてだったんだろうと思います。ほとんど記憶にはないんですけど。抱く側はもっと遅くて、10歳とか、その辺りだったような……」
「はー……。何か、ここで暮らしてるとおまえみたいな奴も珍しくないけどさ、何度聞いても、信じられないな……」
「ぼくは逆に、嬰矢さんとか、スイみたいな人たちが、わざわざこの仕事を選んでるってことの方が、興味深いです」
「や、俺に言わせたらスイだって、全然普通じゃないけどな。16で家出て、パトロン目当てに美術関係の大物が出入りしてるバーでバイトして、見事パトロンゲット、でもその直後にクノさんに会って男娼に転身、って。何その行動力。こえーよ」
「……普通は、何歳まで学校に行くんでしたっけ?」
「ん? まー、地域によっても違うけど、この辺だったら、義務教育は15までかな。最近じゃ、その後も上の学校に進学するやつの方が多いと思う」
上向いて湯のみを空にしてから、嬰矢さんは食堂の入口の方に視線を向けた。
「さーて、そろそろだぞ、静日」
言葉の意味は解らなかったが、ぼくも首を巡らせて、開け放たれた食堂の引戸の向こうを見た。それからすぐに、廊下をこちらに駈けてくる足音が聞こえはじめる。
「みんなー、雪がっせんするよー!」明るい子供の声が、店じゅうの団員に、そう、呼びかけているようだ。
ザ・サーカス最年少団員(と言っても勿論、まだ6歳の彼は、お客さんを取ったりはしない準団員だ)、レイトの声に続いて、もう一つの足音と声も、彼を追って近づいてきていた。
「こらレイト、待たねぇか、ちゃんと上着着てからだ!」
「クノさん足おそーい」
「こぉら、止まれレイト!」
「レイトにかかると、天下の毒蛇も形なしだな」嬰矢さんは、くっくっと喉を震わせて笑った。
開け放たれた食堂の入口に、レイトが飛び込んでくる。頭の上にひとさし指を立てた手を掲げて、びしっと立ち止まった。「雪合戦する人この指とーまれ!」
レイトの指に、いの一番に「とーまった!」のは、入口近くの席にいたスイだった。
「やっと止まった……」クノさんが、レイトの後ろから姿を見せる。ぼくら団員はみな、「お疲れさまです」と声を揃えた。団長のクノさんはそれに「お疲れさん」と返し、手にしたダウンジャケットを彼に羽織らせた。スイが前からすかさずジッパーを上げる。見事な連携プレーで、レイトは一気に着膨れて丸くなった。
「もー、あついよ!」と不満そうにほっぺたも膨らませている。
「あたし、やるならレイトのチームがいいわぁ」次にレイトの指にとまったのは、ピンクのツインテールの美女だった。彼女はイチカさん。現在の1番人気〈スター〉であるスイと、いつもこの店の天辺を取り合っている、人気団員だ。
「じゃあイチカさんとおれ一緒チームね。スイはクノさんチーム」
「ええー、おっさんチームかよー」
「スイもおっさんだからちょうどいいよ」
「レイトぉ、俺はおっさんじゃないよー。ハタチだよー。ピチピチだよー」
「バァカ、一桁の子供から見りゃあ、二桁以上はみんなおっさんさ」
「スイのおっさんー。スイおっさんー」
「俺の年はクノの半分だ!」
親子孫と言えなくもない年齢差の3人が、同じレベルで言い合っているその横で、イチカさんは彼らをクールに無視して、
「和はどうする?」と、厨房に声を掛けた。そうねぇ、と和さんは、ほんのわずかに思案顔をしてみせてから、うふふ、と笑う。春が戻ってきたかのような、可憐な微笑みだ。
「あたしはみんなが帰って来たときのために、おしるこでも作っておくわ」
すると、おしるこ、という言葉を聞き逃さなかったレイトが、「和ちゃん、おれつぶつぶのやつがいい!」とリクエストした。
「俺はさらさらのがいい」スイも注文をつける。
「うふふ、わかったわ。両方つくっておくわね」
「やったー!」レイトとスイは同じ調子で喜びのダンスを踊った。
「精神年齢が一緒だわ……」イチカさんが頭を抱える。
「バーカ、レイトの精神年齢がめちゃめちゃ高いんだよ。なぁ、」
「違うよ、スイが子供よりバカなんだよ」
「何だと、この生意気小僧め、懲らしめてやる!」2人は追っかけ合いをはじめた。スイが下ろすつもりのない拳をふりあげると、レイトはキャーと叫んで、頭を庇いながらぼくのところに逃げてくる。
「静兄はおれのチームね!」そう言って、ぼくの座っている椅子の背ごと、ぼくを緩く抱きしめるようにした。
「なんだよ、レイ。俺は?」
「エーシはおっさんだからクノさんチーム」
「つれねぇなあ」
「あの……チームって?」ぼくは訊いた。雪合戦、という言葉は知っているが、ルールも何もわからない。
「雪合戦のチームだよー」とレイトは答える。
「実際やってみりゃすぐだよ。あ、でも、おまえ怪我治ったばっかだし、無理はすんなよ」スイが言うと、レイトがすかさず、座っているぼくの隣にまわってくる。
「だいじょうぶ、静兄はおれが守るから」6歳の子供にしては精悍な表情で、小さな騎士は、ひとつ、胸を叩いてみせた。