01

スピロ・スペロ

 こういうときに俺が考えていることと言えば、いつかこの町を抜け出す算段だ。

 と言っても、今のところは何の手だてがあるわけでもない、金もコネも地位もないガキの、空しい妄想。だけど何度繰り返しても色褪せない、ヤクなんかよりよっぽど飛べる、うるわしい妄想だ。俺はその一場面を、気付けばまた、瞼の裏に追っていた。

 まずは、クルマを手に入れる。ゲートの通行許可コードさえ付いてれば、二輪でも四輪でもいいんだけど、妄想の中で俺が乗ってるのはいつだって二輪だ。理由はこれ以上なく簡単で、格好良いから、好きだから、だ。

 町を取り囲む防砂林を抜けたら、ギアは最高速に入れっぱなしで、後はひたすら、ゲートを目指して荒野を爆走する。白い砂礫の大地に反射する太陽光が、鉱石生物を積んだエンジンをめいっぱい刺激して、馬力をさらに上昇させる。俺の後姿はあっという間に砂塵に飲み込まれて、追跡者は途方に暮れる。辿りついた荒野の果てには、無慈悲な鋼鉄の壁が、天を突いて寝そべっているが、俺のクルマは通行許可コード搭載だ。ゲートは大げさな音を響かせて、簡単に俺の前で股を開く。

 さあ、そこから先はもう〈外〉だ! 俺はもう二度とゲートを潜ることはない。一度も後ろを振り返らない。こんな下らない町とは、それで永遠におさらばだ。

「もっと強く吸っていいよ。ベロももっと動かして」

 頭の上に降ってきた声に、俺の楽しい夢想の時間は中断された。瞼を上げ、黒目をそっちに引き付ける。ミクスドは、片側の頬にだけ深いえくぼのできるいつもの笑みで、俺を見下ろしていた。口の中が塞がっていて返事ができない。俺は言われた通りにミクスドのペニスを音を立てて吸い上げ、舌を細かく動かしながら、喉の奥まで飲み込んだ。

「久しぶりに、入れてしてみようか」

 ミクスドの指先が、俺の短い頭の毛を梳くようにして、こめかみから襟足まで辿った。顔を上げる。鍛え上げた体を刺青で埋め尽くした、ストリートギャングのボスとしては申し分のない外見をしているくせに、ミクスドの口調はいつだって穏やかだ。「どう? したくない?」

「……したい」俺は乾上がる寸前の喉から、声を絞り出した。

 ミクスドは部下に対して、ほとんど命令口調で話すことがない。いつだって優しげな声で、何事かを許可したり、提案したりするような言い方をする。それが命令であることを聞き分けられないバカは、このチーム、〈ヴィルジニズ・ヒドラ〉で、まともな地位を得ることは永遠にないだろう。

 俺は膝下にわだかまっていたジーンズと下着から足を抜いて、ソファに仰向けになった。天井全体に薄く濃く染み出した雨漏りの痕と、壁際に積み上げられた段ボールの連なりが、広くはない部屋に、ますます圧迫感を与えている。のしかかってくる鍛えた男の体がさらに、俺の気分まで圧してきた。まるで潰れたハンバーガーだ。俺はみずから、抱えた膝を左右に大きく開いた。

「いいね。もっと俺を誘ってよ」

「……来て……」

 膝立ちになったミクスドのふとももに腰を引っ張り上げられ、片足を肩に引っ掛けられると、最初から逃げるつもりなどないのに、逃げられない、という絶望が湧いてくる。でも俺は、それと同時に、最近すね毛が濃くなってきたのは身長が急に伸びだしたのと関係してるんだろうか、なんてことを考えていた。

 これが、絶望だ。

 俺は諦めきっている。この男の下から逃げられるという望みが、とうに絶たれたものであることを、受け入れてしまっている。

「……っ、ぅう……ッ!」ぬるぬると入口の周りになすりつけられていた先端が、内側に潜り込みはじめる。俺の体は、実際に感じている痛みより、過去に経験した痛みの方を優先させて、かたくなに縮こまっていた。ミクスドが、端の吊り上がった脣から、ふ、と息をこぼす。「本当に来てほしいの、ロス。これじゃ奥まで入れないよ」

「…………て、……奥まで、……き、て……」

「じゃあ、もっと楽にしてごらん。ほんと、亀みたいに首縮めちゃって」

 俺はまず、ミクスドの言葉を意識して、首まわりから力を抜いた。次に肩甲骨、胸、背筋、弛緩は波紋のように体の末端へ向かう。ふくらはぎの筋肉をあらわに宙に浮かせていた脚も、ミクスドの肩にそうっと下ろした。それを待っていたように、パチンと何かを弾く音がする。切先を含まされたままの部分に、ぬるりとした感触が加わった。

「いいよ。じゃあ、今度はここにだけ力を入れて、」ここ、と言うときに、ミクスドは軽く腰を揺すった。嫌悪感を飲み下し、俺は命令を実行するだけの冷徹な兵士になったつもりで、男の性器を受け入れるために、襞を開いた。他人が中に押し入ってくるときの、火を点けられたような熱さ。久し振りすぎて、忘れていた。

「そう、その感じ。思い出してきた?」

「は、……っ、う、待っ、」内側から他人に体を拡げられる、みじめな感覚に、内臓ごと吐き出したくなる。俺の体が、人体ではなく、物体にされている。痛みや快感なんて、その飾りだ。

「……はぁ、…………イィ、……ロス……」

「ぅあっ、……ッ、あっ、あっ」細かく揺すられて、脣の間から短い喘ぎが引っ切りなしに出た。意味のない自分のその声より、ミクスドの吐息より、肌のぶつかる音や、ソファの軋みよりもまだ遠くで、何か、聞き覚えのある音がしている。最近がたつきが酷くなってきた、壁際の作業机の脚が、俺たちの生む震動で揺れているのだろう。

 ミクスドがこの部屋にやってくる直前まで、俺はあそこに座って、売り物のパックを作っていた。片付ける間もなく誘われたから、散らかった机の上が気にかかる。ポリ袋の束や書類が、なだれを起こしはしないだろうか。一番心配なのは、電子秤の傍に置いてあるはずの、純正品入りの袋だ。まだ中身が半分以上残っていたはずだが、俺はちゃんと密封しただろうか。倒れて中身が溢れたりしたら大ごとだ。確かめたいのに、下半身を持ち上げられていいように突かれているこの体勢では、天井とミクスド以外に目をやることなど不可能だった。

「う、ぅふ……ッ、ぅう……!」硬い熱が、勢いをつけて突き上げてくる。そのせいで、涙まで押し出されてくるんだろうか。痛みに怯えた体が勝手に、ソファをずり上がろうとしてしまう。ボロボロの合皮に爪を食い込ませて、俺は耐えた。視界の端っこで、自分の手の甲に浮かんだ骨の線と血管が、生きもののようにうねっていた。

「痛い? ロス」分かってるなら止めてくれ。唾を吐きたい気持ちで首を振る。俺が入れられるのに慣れていないことは、誰より、ミクスドが知っていることだ。愛人関係はもう半年になろうとしていたが、アナルセックスは、まだ、数えるほどしかしていない。初めてヤったとき、中に塗られたクスリが体質に合わなくて、俺のケツが痙攣を起こしたせいだ。出口を締め付けられて逃げ場を失ったミクスドの一物は、その後三日は役に立たなかったらしい。もう少し俺の括約筋が強靭だったら、潰すこともできてただろうに、全くしくじった。

 ミクスドの手が肩甲骨の下に差し込まれたと思ったら、そのまま逆手に俺の肩を掴んで、自分の方に一気に引き寄せた。痛みが脳天まで突き抜ける。

「アァアアァーッ!」

「ここ、そろそろ自分で拡げるなり、誰かに慣らしてもらうなりしてみたら? 緩くなりすぎるのも困りものだけど、こんなんじゃいつまでもお客さん取らせられないよ」見苦しい叫びをあげ続ける俺を、ミクスドは構わず犯し続けた。唾の溜まった喉で無理に息をしようとして、噎せる。もっと烈しく咳き込みたいのに、腹の中にある異物が邪魔で、咳がなかなか終わらない。あんまり苦しくて、気が遠くなりかけた。

 客を……俺に、客を取らせると言ったのか、ちくしょう! やっぱりそのつもりか、ちくしょう、ちくしょう……! 視界に、わけのわからない黒い粒子が、染みのように増える。目の前が暗いのに、同時にチカチカして、眩しい。

 上手くやれていると思っていた。

 ミクスドの愛人になってすぐに、町の北側で、クスリの販路を拡大するという仕事を貰った。あのときは歓びで、ケツを掘られた痛みも吹っ飛んだ。上手くやれば、俺はボスの愛人という秘密の後盾以外の、現実的な足場を作れるかもしれない。

 この町は、広い国土の東の果てにある、幻の町だ。軍の管理区域の中にあるため、地図にも載っていない。管理区域とそれ以外を分ける境界には、天に突き刺さるような鋼鉄の塀が延々続いていて、そのどこかにあるというゲートも、軍が発行している通行許可コードがなければ決して開くことはないという。ゲートを一歩入ると、白い荒野がどこまでも続いていて、しばらく進めばどっちから自分が来たのか、たちまちわからなくなるほどだ。正しい方角に二時間ほど進めば、地面に転がる砂礫はだんだん細かくなってきて、辺りは白い砂漠になる。防砂林に囲まれた俺たちの町が姿を現すのは、ようやくその頃だ。

 これは〈外〉から来た奴に、以前聞いた話だが、聞く前から、自分の生まれた場所がそういう特異な場所だということは知っていた。金を貯めては、町に一軒の映画館で映画を見るのが、俺の唯一の趣味だからだ。映画の中では、子供には親がいるのが普通だし、戦場近くの小さな町に閉じ込められてもいないし、職業選択がギャングか街娼の二択なんてこともない。あったとしても、それは異常なものとして描かれる。

 この町の南側で生まれた人間にとっては、その異常が日常だ。親は捨てるか捨てられるもの。町の向こうには、前線基地の高い外塀が、山の連なりのように見えている。そのさらに向こう側には軍事境界線があって、独立を求める領島との睨み合いは、俺が生まれる前からずーっと続いているらしい。時々、演習なのか威嚇なのか、地響きをともなった爆発音も聞こえてくる。

 こんな不自由な町にも、流れ着いてくる物好きというのはいるものだ。その中でも俺は、〈外〉で活動できない何らかの理由があってこの街へ逃れてきた、自称芸術家や、思想家の類に目をつけた。彼らは飢えていた。俺には理解できないことだが、表現の自由を取り上げられるというのは、彼らにとって、飯が満足に食えないことより強烈な飢餓状態を生むらしい。俺は彼らに、ギリギリ赤字にならなければいいくらいの値で、良質のクスリを売るようにした。親切心からではない。俺が本当にねらってたのは、暇に飽かせてそういう連中を囲っている、北地区の富裕層だったからだ。

 結果を言えば、もくろみは見事に当たった。苦しい思いをしても粗悪品を流さなかったおかげで、俺の売るものは金のある連中に信用された。俺はケツを使ってチャンスを買いはしたが、自力で、それをモノにしたのだ。

 そう、思ってた。でも、ボスであるミクスドが一言、子供通りに立てと言えば、俺は今日から街娼の仲間入りをしなければならない。俺のチームへの貢献度が、まだその程度だってことだ。今の〈ロス〉には、ケツ以外、大した価値がない。頭文字をrからlに置き換えれば、まさに無駄、もしくは敗北、あるいは浪費、の〈ロス〉だ。

 目尻に滲んだ俺の涙を、ミクスドの太い指が、目玉に戻すようにして拭った。エクスタシーが過ぎた後で見せるような、陰影のある笑みを浮かべている。

「冗談だよ。泣かなくてもいいのに」

「ゆ……るして……」湧いてくる咳を殺し、俺はよれよれになった声で、どうにか言った。「何を?」ミクスドの手が、俺の頬を包むように撫でる。俺はその分厚い手に、自分のてのひらを重ねて、のしかかる男を見上げた。涙を目玉の底に落とし込むイメージで、瞬きを、ゆっくり二回。「次までに……、自分で、ちゃんと、……慣らしておくから……」

「震えてる」ミクスドは俺の手を上から握り直した。ぎゅっ、ぎゅっ、と、確かめるように何度か握って、手の甲を優しくさすった。「怯えないで、大丈夫。冗談だって言っただろう? おまえは俺だけの愛人なんだから、通りの男娼になんてするわけがない」

 深く差し込まれていた茎が、ゆっくりと、引き出されはじめた。俺は息を詰める。堅いものがずるずる出て行く感覚は、無理に排泄させられてるみたいで、ぞっとする。それに快感が伴ってくることが、何より気持ち悪かった。ミクスドの勝手でガンガン突かれて、血を流して痛みに喘ぐ、そんな抱き方をされた方が、百倍は気が楽だろう。

「ロスは、これ、好きだよね。ほら、」太いところが、内側の弱い場所を抉りながら奥まで押し込まれ、その倍の時間をかけて抜けてゆく。知らず足の指先は開いて突っ張り、全身に、沁み渡るような鳥肌が立った。「……ッ、あー、あー、あー、……っ!」

「ゆっくりだと、気持ちいい?」

「……イ、……もち、い……」

「ん?」

「きもち、い……、ッひ、」

 ミクスドが俺にもたらす快感は、穴という穴に手を突っ込まれて中身を掻き回され、その尻尾を捕まえて力づくで引き摺り出されたような、汚くて、酷い快感だ。体が重くて、快楽の波に乗るよりは、このまま静かな海の底に沈んでしまいたい。俺はその欲望に抗って、尻を突き出し、腰を振り、背中を反らせて、甘い声で泣いた。ミクスドを煽るために。まんまと内側を擦る動きが激しくなって、脣の端に出そうになる笑いを、何度も噛み殺した。後ろから突き上げられるごとに汗が噴き出してきたが、激しく揺さぶられればものを考えられなくなるから好都合だった。

 俺はミクスドとのセックスを、嫌だと思うことすら、嫌なのだ。

 粒になった汗が、こめかみや腋を伝い落ちる感触がくすぐったい。触らなくても、全身の皮膚がぬるついているのが分かる。水の中にいるみたいに、息が苦しい。

 揺さぶりが止まった。気の抜けるような呻きが聞こえて、奥まで拡げられた穴の中に、アレが満ちてくる。俺が汚物にされる。

「すごいな……全部、搾り取られた……」ミクスドは引き攣るような笑い声を漏らして、俺の中からペニスを抜いた。後を追って、中に吐き出されたものが飛び出してきた感触があった。息を吐くたび、汚らしい音と共に、どんどん漏れ出てくる。ミクスドは、抱えた俺の脚の付け根を左右に開いて、その様を笑って見物している。

「すごい、全然止まんないね。掻き出してあげようか?」嫌悪に喉が苦酸っぱくなる。それを唾で飲み下して、俺は口を開いた。「自分で、やります」

 一瞬の、間があった。

「脚、自分で抱えて開きな」

 その声を聞いた耳から、怖気が全身に走る。俺はすぐに、両腕でふとももを抱えて、ミクスドの前に大きく開脚した。

 どんな問いかけも命令だと、わかってたはずなのに。「自分でやる」だって? もし、ミクスドの機嫌が悪かったら、命取りになりかねない返答だった。久々のアナルセックスで疲れていて、頭が働いていなかったのだ。疲れているときこそ、振舞いに気をつけること。そんなのは、いちいち言葉にして思うまでもない、ごく初歩的なことだ。俺は自分の失敗を刻みつけるように、抱えた膝の裏で拳を握り込んで、掌に爪の痕をつけた。

 ミクスドの太い指が、奥まで入ってくる。「……ッ、うぅ、……っ、」でかいのでさんざん擦られた後だというのに、入口がキツい。痛ぇ。クソ、指、何本入れやがった。中で蠢く指先が、腹側の弱いところをねばっこく何度も引っ掻く。「ッいぁ!」

「そんなお尻くねくねさせて、やらしいね、ロス。一度じゃ足りなかった……?」ミクスドはくすくす笑いながら、俺の弱点ばかりを責めた。最初から、後始末をしてやる心算などないのだ。あるいは、さっき大人しく「お願いします」と言って股を開いていれば、結果は違ったのかもしれない。一瞬の判断ミスが、こうして自分に返ってくる。

 ふとももにときどき当たっていたものが、擦り付けてくる動きに変わる。硬度もかさも、すっかり臨戦態勢だ。俺はミクスドの上に自分から跨がって、二度目のそれを銜えこんだ。汗だくで体を揺らしながら、早くケツの中を洗いたい、そればかりを考えていた。早く汗とザーメンを流して、早く、一秒でも早く、いつもの『ロス』に戻りたい。

 今の俺は、本当の俺なんかじゃないんだ。

 シャワーを浴びて服を着るまで、俺はたっぷり汚れた腹の底で、そう叫び続けていた。

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