05

スピロ・スペロ

 Gリーチと入れ替わりにベンチに腰を下ろした。座ってみると、ちょうどそこから、ホテルのエントランスも、オープンテラスも見渡すことができる。『マリィ・マリィの客』はまだテラスにいて、膝の上に座らせたデメテルに、女の口には大きすぎる葉巻を手ずから銜えさせていた。俺がこれまで、子供通りを避けて来た理由そのもののような光景だ。これ以上、男の汚い笑みを見たくなくて、テラス席から視線を外す。

「ねーえ、ロス、あたしだーれでしょ!」一人になった途端に、俺のところには客の切れ間の街娼たちが寄ってくるようになった。警備係の視線が痛いが、今日はこれが仕事なのだから仕方がない。「キーシャ。十八歳。Bランクに上がったばかり」

「ね、ね、あたしはぁ?」

 娼婦たちとの無駄話は、顔と名前を頭に定着させるのに有効だ。それ以上に助かったのは、Aランクの娼妓が客と連れ立って通りに出てくるたびに、名前や性格、客層に、得意としているプレイまで、何でもかんでも事細かに教えてくれることだった。おかげで、名前だけでなく、街娼たちの派閥や力関係についても、日付の変わる頃にはだいぶ理解できるようになった。

 傍から見ている限り、Aランクの娼妓は、下のランクの娼妓に比べて、特別に容姿が優れているわけではない。中には、これが、と目を疑うような、年増の不器量も居た。『美形揃いで有名な人気娼館で、ブスなのにずっと売り上げ一位だった』という伝説の娼婦であるらしい。ほかには、俺でも知ってる、元ポップアイドルだというのもいた。近くで見ると、とんでもない厚化粧で、くっきりした二重も尖った顎も、どう見ても整形顔だったが、そのマリーンという女と、リリスが、この日のAランクの中では、飛び抜けて仕事をしていた。

「ロスぅ、あたしねぇ、今日はもぉお終いにしよっかなって」

 五回目に会ったとき、マリーンはそう言いながら、くねくねした無駄の多い動きで近づいてきた。一回目に俺の名を訊き、二回目に自分の名を名乗り、三回目は瞬き一つ、四回目はよろけたふりで、俺の膝の上に座った。体にぴったり沿ったニットのミニドレスの下に何も身に着けていないことは、そのときに尻の肉をふとももで感じて分かったことだ。そのりんごのような尻が、ゼロ距離で俺の隣に座った。

「今までも、そうやって終了報告してたのか」なるべくそっけない声で俺は言った。それでも、放っておくと余りにも冷たい声が出そうだったので、そうなりすぎないように気を遣って出した声ではあった。

「え? してないけどぉ」

「なら、俺にもしなくていい」

「ちょっとぉ、冷たくない? Gリーチならぁ、『お疲れ様、体冷やさず寝ろよ』くらい言ってくれるのにぃ」

「おつかれさまからだひやさずねろよ」

「じゃ、ロスがあっためて?」

 棒読みで繰り返しただけの言葉を咎めることもなく、マリーンは俺の左腕を抱き締めた。それを胸の谷間に挟みこむようにして、上目遣いをする。自分の腕が、夢に見たこともないような巨乳に吸い込まれている。ただただ、その眺めにぎょっとした。前に、水着のグラビアか何かを見た覚えがあるが、そのときはここまででかくなかったような気がする。改造は顔だけじゃないんだろう。俺は大きく腕をまわして、パニック映画に出てくる巨大ダコのごとく絡み付いてくるマリーンの体を振り払った。「まだ仕事がある」 

「でも、ずぅーっとここに座ってるだけじゃない」

「それが今日の仕事なんだ」

「……つっまんないの」低い声で吐き捨てると、さっきのくねくねよりずっと効率的な歩幅の広い歩き方で、マリーンはホテルに戻っていった。見事な声色の変わり様だ。一瞬、『彼女』じゃなく『彼』だったのかと疑ってしまった。



「あの、これ、よかったら」

 ニットカーディガンのポケットを探りながら、リリスが声を掛けてきたのは、通りの街娼の姿もまばらになってきた、午前三時過ぎのことだった。ベンチから彼の姿を見るのは、これでもう六回目だ。つまり、リリスは今夜すでに十一人もの客を見送ったことになる。一晩でアレを十一回。遠くなりかけた目の前に、リリスの両手が差し出された。個包装された飴玉がいっぱいに載っている。咄嗟の反応ができず、銀色に光る飴の山を、しばらくぼけっと眺めていた。

「あ、これはちゃんと、ホテルの受付にあった、封切ったばっかの……」

 手を出さない理由を、そういう方向に誤解したらしい。説明を最後まで聞かずに、一粒だけ貰って食った。メロンソーダ味の飴は、口の中でしゅわしゅわ泡立った。疲れのせいか、妙においしく感じる。気の緩みが顔に出てしまったのか、リリスは俺の顔を見て、にっこりした。思わず奥歯で飴を噛み砕いてしまう。

「一個だけでいいの?」

「ああ。おまえも今日はもう終わりか」

「いえ、泊まりの方がもう一人。朝が少し遅い方だから、お金持って行くのも、いつもより遅くなるかもしれません」

「そうか」お金を持って行く、の意味が分からなかったが、おそらくは、売上金の一部を後で上納するようなシステムになってるんだろうと思って、頷いておいた。「それじゃ、失礼します。おやすみなさい」リリスは一礼すると、くるりと背を向け、俺から離れていった。テラスには、いつの間にか、次の客の姿がある。

「おい、」

 リリスが、こちらを振り返る。えっ、と思ってから、自分が呼び止めたのだと気付いた。

 どうして。

 でも、呼び止めてしまった。とにかく、理由をつくらなければ。俺は、そうすれば何か適当な言葉がついてくると信じて、とにかく息を吸って、口を開けた。

「あ……飴、もう一個だけいいか」

 何を言ってるんだ、俺は。リリスは膨らんだポケットを探って、なぜか二個一緒に投げて寄越した。「要らなかったら、一個はグレイ・リーチにでもあげて」俺が二個とも上手くキャッチしたのを見届けてから、ちょっと微笑んで、客のところへ駆けていく。

 テラスの客は、今のやり取りを全部見ていたのだろう。リリスに一旦食べさせた飴を、口移しで貰って、きつく抱きしめたリリスの肩越しに、俺に向かって太々しく笑ってみせた。的外れな挑発などどうでもいいが、男の嫉妬というのはみにくいものだ。ミクスドの顔がふと頭を過る。一度だけ、そこにいない相手に頭突きをするように頭を振って、嫌なイメージを吹き飛ばす。

 ジムショに戻る途中で、二個目の飴も、奥歯ですっかり噛み砕いてしまった。腹の虫が鳴る。やっぱり、リリスが持っていた分を残らず貰っておけばよかった。夕方遅くに部下を殴りはじめたところから、今夜は予定外のことばかりで、飯を食っていない。ジーンズのポケットに突っ込んだ手に、三個めの飴が触れる。

 でもそれは、Gリーチの分だ。

 耳の奥に、リリスの「グレイ・リーチ」というきれいな発音が、まだ残っている。ミクスド以外に、Gリーチの本名を呼ぶ人間を、初めて見た。



 ジムショに戻ると、明々と電気の点いた集会場のソファで、Gリーチは一人で寝ていた。あの手足の長い娼婦の姿はない。念のために、洗面所の扉に耳を寄せて中を伺ったが、誰かが水をつかっている気配もなかった。

「よう、ちゃんとリリスを見てたか?」Gリーチはすうっと上体を起こした。体の向きを九〇度変えて、ソファから足を下ろす。眠っていたわけではなく、目を閉じていただけだったんだろうか。「Aランクの中でも特別に人気があるのは分かった」愕きを気取られぬように、意識して、俺はゆっくり喋った。ポケットから、さっきリリスに余分にもらった飴を取り出して、宙に放る。Gリーチはそれを顔の前で、軽々と指に挟むようにして捕った。「何だ、飴玉かよ」

「リリスから」

「そうか」ふっと、表情がやわらいだように見えた。太い指で、やけに丁寧に包みを開く。Gリーチが摘むと、飴玉は頭痛薬の錠剤のように小さく見えた。鰐を連想させる頑丈な顎を使わずに、ゆっくり舐めている。

『Gリーチはリリスのケツ穴にぞっこん』だとかいう、リューの言葉を思い出した。それが本当でも嘘でも、そんなことはどうでもいいことだが、何だか男娼ごときに試されたような気がして、今さらイライラしてきた。ああやって、Gリーチの名前を出すことで、俺が二人の関係に勘付いて、ちゃんと飴玉をGリーチに渡せば合格、みたいな試験を、二人でグルになってやったんじゃないだろうか。

「おまえ、この後もちろん空いてるよな」Gリーチは、七部丈の袖から出た太い腕を掻きながら言った。「後? まぁ、はい……」

「こないだハチにやられてな。まだ治らねぇ」とぼやいて、Gリーチはなおも、右腕を大きく掻いたり摘んだりしている。黒く太い両腕には、手首の辺りまで、いくつもの目玉を筋繊維が繋いでいるような、おどろおどろしい刺青が入っていて、虫さされの痕など見つからない。だいたい、草もろくに生えないような土地だから、この町ではハチなんて滅多に飛んでないのだ。一体どこで刺されてきたというのだろうか。

 もしかして、〈外〉に行ったのか……?

 その考えに、全身がざわつく。

「で、この後ってぇのは、仕事の話だ」Gリーチは、俺の期待を打ち落とすように、ぴしゃりと自分の腕を叩いて、言った。「子供通りには、例のAランクのホテルと、ほかにも二軒、直接にはうちのチームの持ちモンじゃないホテルがある。そこで商売してる上位ランクの奴らは皆、仕事がはねてから、売上清算しにここに来るんだ」

 さっきリリスが「お金を持って行く」と言っていたのは、やっぱりそういう意味だったようだ。それにしたって、金勘定が大事なのは分かるが、これがチームのナンバーツーのやるべき仕事だろうか。

「一つ訊きたいんだが、アンタの部下は、全員バカンスにでも行ってんのか?」

「俺の部下なら目の前にいるじゃねぇか」

「俺以外に、身近の、補佐役みたいなのとか……」

「いたときもあったけど、使えねぇ奴置いといても邪魔になるだけだからな」

「金受け取るぐらいのことなら、ちょっと算数さえできりゃあ誰だってできるだろ」

「簡単な仕事に思えるか? 毎日、金受け取るついでに、街娼たちと直接会って、愚痴聞いてやったり、なぐさめたり、ランクや花代の交渉にも応じて、売上の悪いやつには追い詰めない程度に上手くプレッシャーもかけなきゃならない。かけすぎると取り返しのつかねぇことになることもあるからな。それにクスリだとかアルコールで心身に害が出てねぇかチェックも必要だし、検診だの堕胎だのの手配もこっちでしてやることになってる。ほかにも、娼妓と警備のスケジュール調整に、ルール無視した奴への制裁、逆に売上いい奴へのご褒美、〈毒蛇〉に提出する月次報告の資料作り。とにかく何から何まで〈子供通りの番人〉の仕事だ。体のいい何でも屋だよ」

「それを今まで、毎日、アンタ一人でやってたのか」

「まぁな。けど、今日からはおまえの仕事だ」

「いきなりは無理だ」

「無理じゃねぇよ。何の為にCランク以上の顔と名前、一晩で覚えさせたと思ってんだ」

「まだ全員は覚えてない。今日の路上にいたやつだけだ」

「今日の路上にいた奴しか来ねぇんだから、今日の所はそれで充分だよ。おまえ字は読めんだよな」と、こっちに数枚の紙切れを差し出す。俺はそれを覗き込んで、頷いた。「これくらいなら」

「上等だ。これは各ホテルから申告のあった、街娼ごとの客の人数と時間の一覧。チェックついてんのが、もう払いに来た奴。この時間だし、残りは朝になるだろうな」

「分かった」リストを受け取る。枠外には、ランク別の一時間あたりの花代が、赤ペンで書き入れられていた。野生の獣のような外見を裏切って、Gリーチの書く字は、固く整っている。

「いやぁ、こんな優秀な部下ができて嬉しいぜ。ミキに礼言っとかないとな。お疲れさん」清々しい笑顔で俺の肩を叩いて、Gリーチは鼻歌混じりに集会場から出て行った。足取りはスキップでもしそうなくらい軽い。いかにも重要な仕事のように言っていたが、やって来たばかりの俺に丸投げできるようなことなのだから、内容ではなく、単純に、朝までこの部屋にいなければならないことが苦痛だったのに違いない。毎日これが続くとなると、Gリーチの付近を嗅ぎ回るのも楽じゃなさそうだ。

「……くそっ」

 見えないミクスドの圧力が、水浸しの衣服のように、ずっしりと体に纏いついてくる。俺は大きく上体を振って、ソファに横になった。苦しい喉で息を吸う。ひゅうっと間の抜けた音がした。浅い息を意識的に繰り返しながら、渡されたリストを顔の上に掲げる。名簿の一番上の名前に、目が吸い付いた。

 Lilith

 淫靡な悪魔の名前。まさか、本名ではないだろう。デメテルなんて奴もいたし、子供通りでは、古い神話から源氏名を取ってくるのが流行ってるのかもしれない。

 思い返してみても、あいつはちっとも、〈リリス〉っぽくなかった。はきはきした口調に、変哲のない笑顔。さっぱりした態度。あれでリリスなんて、名前負けもいいところだ。

 ただ、ひとつだけ。さっきの別れ際、離れて行く彼の背中を、俺はわけもわからず呼び止めていた。あのことだけが、胸に引っかかっている。あれが、リリスの魔術だったのだろうか。俺は無意識に、奥歯を舌で触っていた。噛み砕いた飴の味を思い出そうとしたのか。いや、違う。腹が減ってるだけだ。俺は思い直して、再びリストに焦点を合わせた。

 まだチェックが付いていない名前から、その顔を思い起こす作業をはじめる。上から順に。一つ一つ確実に。大丈夫、思い出せない顔はない。安心すると、大きなあくびが立て続けに出た。眠気に力が抜け、紙切れが何度も顔の上に落ちる。視界が塞がると、一気に頭がぼうっとなる。

 背中に感じる他人の残した温もりが気色悪くて、幾度となく身じろぎしたが、その内慣れて、俺はそのまま、明るい集会場のソファでしばらく眠った。

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