08

スピロ・スペロ

 ぱちりと目が覚めた。寝ている体に地震を感じて飛び起きるときのように、あまりにもきっぱりした覚醒だった。

「おはようございます」

 聞こえた声は、細く澄んでいた。声のする方に顔を向ける。強ばっていた首筋が大きく鳴った。固い床に直接寝ていたせいだ。

 リリスは、ソファから足を下ろして、ちょうど立ち上がるところだった。裸のまま、昨晩、俺がかけた毛布をきれいに畳んで、ソファの上に置く。早朝の青い薄明かりの中に晒された裸体は、もう少しで透き通ってしまいそうなほど、まっさらに見えた。

「これ、ロスが?」シャツに袖を通しながら、リリスは、背中で訊いた。毛布のことを言っているのか、ソファの上にぞんざいに畳んで置いておいた服のことか、わからなかったので、「部屋の隅にあったから」と、どちらでも通じる言葉を返した。

 リリスが羽織ったシャツは、肩の位置が二の腕の中程にきていて、どう見たって彼には大きすぎる。昨日ここにいた誰かが、取り違えていったのだろう。余ったシャツの袖口を捲りながら、リリスはこちらに向き直った。

「色々、……ごめんね。ありがとう。……じゃあ、」危なっかしい足取りで離れていく背中を、寝転んで見ていられたのは、ほんの数秒のことだった。勢いをつけて立ち上がって、大股でリリスを追い越し、俺は部屋の扉を開けた。こんなこと、ミクスド以外の人間にしてやったのは初めてだった。どんな顔をすればいいのか分からず、黙って、明後日の方向を睨みつけていた。目の下の際に、こっちを見上げている、リリスの大きな目の気配がした。

「あ……、ありがとう」

「ホテルに戻るのか?」

「家に」

「家、あるのか」

「うん」

「送っていく」

「え、」

「そんな歩き方じゃ、そこの階段降りるのにも、三年かかる」

「……ありがとう」リリスは微かに、笑ったようだった。

 先に立って階段を一段下りてから、軽く振り返って、左手を、斜め後ろに伸ばした。思ったより強い力でそれを握ったリリスの手は、昨晩のように冷たくはなかった。あのときのリリスは本当に『夜の悪魔』で、朝になって、人間として生き返ったんじゃないだろうか。リリスの歩みに合わせて階段を下りる間、俺はそんな馬鹿みたいなことを考えていた。

 早朝の子供通りは、あまりに静かでよそよそしい。そう思うのは、たった数日で、俺もこの猥雑な通りに馴染んでしまったってことだろうか。

「こっちだよ」リリスは街の北側に向かって、足を踏み出した。考えるまでもなく、完全に逆側に向かおうとしていた俺はたたらを踏んだ。「安アパルトが並んでる辺りだから、近いんだけど、」

「ボーダーに住んでんのに、ウリやってんのか?」

 この町は、北と南で住人の質が全く違う。基地に近い、町の北側に住むのは、軍の関係企業に勤める金持ちたちがほとんどで、南側は、俺たちヴィルジニズ・ヒドラとラーテルがそれぞれ仕切る、無法地帯。〈ボーダー〉はその名の通り、北地区と南地区を分断するように横たわる、工場労働者のベッドタウンだ。路上生活をするほどでもない、中途半端な貧乏人の住むアパルトが犇めき合っている。

「今は、住んでない。うちには、お金を届けにいくだけ」

「カネって、でも、昨日は……」

「昨日みたいなときは、グレイ・リーチが、特別にくれるから」

「……なんで、おまえはいつも、グレイ・リーチって呼ぶんだ」俺の知ってる限り、Gリーチのことを『グレイ』と呼ぶ人間は、ほかにミクスドしかいない。逆に、ミクスドを『ミキ』と呼ぶのも、Gリーチだけだろう。あの二人は幼なじみらしいから、それはわかる。でも、リリスは?

「最初にここへ俺を連れて来た日に、あの人が、そう名乗ったから」すぐに、単純な答えが返ってきた。リリスは歩みを緩めて、彼の職場であるホテルを仰ぎ見た。まさか、Gリーチがそこにいるのかと思って、俺はリリスの視線の先を追ったが、青く沈んだ窓のどこにも、人影ひとつ見つからなかった。「Gリーチが、直接、おまえをここに連れてきたのか?」

「うん、三年くらい前。えっと、俺、それまでは……、ポルノの、映像作品とかに、色々……出て、たんだけど、」

「ん。聞いてる」俺はできるだけさりげなく頷いた。「そう、でも、キディポルノの売買は、〈毒蛇〉がこれからますます規制を強めるだろうから、通りに立たせた方が安全に稼げるって、グレイが親を説得してくれて」

「へぇ……」そうやって、稼げそうな街娼候補を見つけて子供通りに連れてくるのも、仕事の内なのだろうか。だとしたら、ほかのどんな面倒な仕事より、俺には荷が重い。「実際、子供通りの方が、いい?」

 リリスは、一度、俺の方に顔を向けてから、軽く目を伏せた。「うん。外に出るまで、俺、なんにも知らなかったから……」俺は稼ぎのことを訊いたつもりだったのだが、リリスから返ってきたのは、そんな、少しずれた答えだった。

 子供通りの北ゲートを出ると、そこはもう、ボーダーと呼ばれる地区に片足を突っ込んでいる。てんでバラバラの向きに立ち並ぶアパルト。頭の上には縦横無尽に電線が走り、狭い路地のゴミ出し場は、どこも大抵、いつまでも片されないゴミが、半分溶けたようになって積み上がっている。「子供通りの方がよっぽど衛生的だな」路地の中央にまでなだれている生ゴミを跨いで、俺は言った。あっちの路地にもこっちの塀の上にも、野良猫が展覧会のようにたむろしている。

 リリスが足を止めたのは、三階建ての、この辺りでは割としっかりした造りのアパルトの前だった。白っぽい外壁は、少ない陽の中でも分かるほど汚れてくすんでいる。高い所を横断している大きな皹も目についた。基地で大規模な砲撃訓練でもあれば、震動であそこから崩れてしまいそうだ。

 アパルトの脇には、やたらと背の高い常緑樹が、建物を取り込もうというような勢いで、濃い緑の葉を茂らせていた。リリスは、アパルトからの死角である、その太い幹の陰に入った。木の根元に転がった拳大の石の下に、ポケットから取り出した紙幣を、一枚だけ隠す。「何してんだ」

「今日のごはん代」

「それ以外、全部親にやるのか」

「うん」当たり前の顔で頷く。リリスが隠したのは、高額紙幣なんかではなかった。そこいらのファストフードで、二食分ぎりぎり賄えるくらいの額だ。こいつ、バカなんじゃないだろうか。口を開いたら罵倒が止まらなくなりそうだったから、俺は脣を結んでいた。

「送ってくれてありがとう」何度目か分からぬ礼をていねいに言って、リリスはアパルトの階段を上っていった。十段もない階段を上るのに、膝が何度も折れそうになって、うんざりするほど時間がかかった。二階に上がってすぐの玄関扉の前で立ち止まり、インターホンを押す。扉が開いた、と思ったら、中から伸びてきた男の腕が、リリスの細い手首を掴まえ、中に引き摺り込んだ。

 何だ、今の。ざわざわと、血が逆流するような、皮膚がそそけ立つような感覚が、内側から音を伴って全身を巡る。一晩中なぶりものになって金を稼いできた子供を、どうして、あんな乱暴に扱えるんだ。ろくな親じゃない。当たり前だ。まともな親なら、どんな理由があったって、子供にこんな仕事させるわけがない。

 おかしいのは、むしろリリスの方だ。

 あんな親のために、幼い頃からポルノフィルムに出て、客に媚び売って、大人数いっぺんに相手して、俺に乗って、動いて、「ごめん」なんて言ったのか、あいつは。あんな、肘から先を一瞬見ただけでも、あいつを愛してないことが丸分かりの親のために。どうして、そんなことになるんだろう。血のつながりって、そんなに絶対的なものなのか?

 だったら、俺はどうなる。赤ん坊の俺をゴミ置き場に捨てた、見ず知らずの親のことを、求めるどころか、憎んだことすらない、俺の方がおかしいんだろうか。

 だめだ。これ以上ここにいたら、いらないことを考え過ぎて、頭の血管が破裂する。俺は踵を返し、冷静になれ、ロス、と唱えた。やるべきことはやった。体のよく動かない街娼を、家まで送り届ける。これは、娼妓をケアする仕事の内だ。そしてその仕事はもう終わったのだから、段ボールに埋もれたあの仕事部屋に戻って、とりあえず今日売りたい分のクスリをパックして、効率よく在庫を捌く方法でも考えながら、もう少し眠ることにしよう。

 だが、何歩も行かないうちに、扉を殴りつけるような音が聞こえてきて、俺は足を止めた。陰気なアパルトを振り返る。リリスが引き込まれたばかりの扉が、ガタガタと揺れていた。顔に、血が昇る熱さを、はっきりと感じた。

 階段を駆け上がろうとした自分の動きに、理性が一瞬遅れで追いついた。上がろうとする膝を、俺は両手で押さえつけた。頭と、体が、めちゃくちゃな方向に動いている。こんなことってあるだろうか。気持ちが悪い。ガタガタ揺れ続ける扉の向こうから、くぐもった呻きが聞こえてくる。昨晩の、耳の裏にかかったリリスの吐息の感触が、ありありと甦って、鳥肌がたつ。

 すぐそこで、扉一枚向こうで、あいつは父親に。

 気持ち悪い。

 膝の上の両手が震える。その下の膝も震えている。いや、震えてるのは、それを見下ろしている目の方だろうか。ぶれる視界に、ガリガリの、痩せた裸が、歪んで見えた。「ごめん」とささやいて、俺に乗った、冷たい体。清潔な体。死んでるみたいに、いつまでも冷たいリリス。せっかく朝になって生き返ったのに、夜になる前にもう汚される。



「まだ、いたんだ」

 声がして、俺は、顔を上げた。

 リリスが、俺を見下ろしていた。疲れた顔。『疲れた』以外の、どんな感情も、状態も、そこには浮かんでいなかった。

 俺は、アパルトの脇の、さっきリリスが金を隠した木の下に、踞っていた。どうして自分がここにいるのか、わからなかった。気分が悪くなって、無意識にこの木陰に入って、休んでいたのかもしれない。あれからどれくらい時間が経ったのかも、感覚としてはよく分からなかったが、足許の影の形を見る限り、まだどれほども経っていないようだった。

「ごめんね。送ってくれたのに、気持ち悪いの、また、……見せちゃって」

 俺はほんの短い時間だけ、リリスを見つめた。やっぱり、『疲れた』に、『ごめん』を乗せただけの表情しか、そこにはなかった。声もそうだった。

「何で、あんなことする奴に、金をやるんだ」低く掠れた俺の声の方が、よっぽどあわれっぽくて、嫌になる。

「家族だから」リリスは、静かに答えた。

「家族はあんなこと、しない」

「うちはするんだ」

「ふつうじゃない」

「ふつうだよ。俺にとっては、あれがふつう」

「じゃあおまえは、やりたくてやってんのか」

「…………俺……?」

 気まぐれに舞う蝶の羽みたいに、リリスは、長い睫毛のついた目を瞬かせた。

 本物の蝶は、一度だけ、東側の防風林の辺りで見たことがある。チームに入るより昔のことだ。白い羽根の小さな蝶だった。空を舞う様は、風に吹き上げられて錐揉みになったビニル袋の動きに似ていたけれど、その千倍、きれいだった。見失うまで、ただずっと見ていた。

「俺は、……ずっと…………」

 唐突に、リリスの顔が、俺の目の位置まで落っこちてきた。首が落ちたのかと思って、恐怖に身が竦んだ。後ろに手をついて、バランスを崩した体を、どうにか支える。心臓が、すごい勢いで騒いでいた。

 リリスは俯いたまま、俺の前にしゃがみ込んで、膝を抱えた。

 そう、たったそれだけのこと。

 どうして、首が落ちたなどと思ったのだろう。

 リリスは、踞った姿勢で、しばらくじっとしていた。俺の心臓はその内にすっかり騒ぎ終わって、通常の状態に戻った。すぐ傍にある体から、覚えのあるボディソープの匂いがした。ジムショのシャワー室に備え付けてあるやつだ。思い出して、また少し、拍動を思い出す。同じ体勢を取っていても、リリスの方が、ずっと小さいように感じた。

 微動だにしないので、眠ってしまったのかと思って、俺は俯いたリリスの顔を覗き込んだ。前髪の隙間から見えた額に、脂汗が一杯に浮いている。眉間にはきつく皺が寄り、鳩尾のところで握られた拳は、力を入れ過ぎて真っ白になっていた。

「だ……」大丈夫か、と、口を開きかけたときだった。

「お腹空いてない?」あまり語尾を上げずに、リリスは言った。瞼がぱかりと持ち上がって、青い瞳と視線が合う。俺の足の間にあった石をずらして、隠していた金を、ポケットに戻す。「ハンバーガーでもいい? 送ってくれたお礼」と言いながら、リリスは立ち上がった。俺も、ほとんど彼の動きにつられて立った。それが返事の代わりになった。

 沈黙も、つらそうな眉も、全てが白昼夢だったかのように、リリスはにこやかに身を翻して、俺の先に立って歩き出した。付かず離れずの微妙な距離を置いて、後に続く。

 もっとよく見たいと思ったのか、あんまりちゃんと見たくなかったのか、自分でもよく分からなかったが、俺は目を細めて、前を行くリリスの背中を見た。何だか俺は、こいつの背中ばかり見ている気がする。

 ぶかぶかの粗末なシャツ。あれは彼のものじゃない。だけど俺が、彼のために畳んで置いておいたもの。

 陽に透けると、痛んだ毛先が白くなる、痩せた金髪。

 鎖の先に繋がった重石を引き摺るような足取り。

 同情を引く要素ばかりで形づくられているはずなのに、リリスの背中から、みじめさは欠片も感じることができなかった。輪廓はつるりと描かれ、同情をかけたところで、全部滑り落ちてしまうに違いない。

 俺はその小さな男娼の後姿を、少しも飽きることなく、見つめながら歩いた。傍から見れば、親鳥の後ろを一心についてゆく雛鳥のようだったかもしれない。

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