10

スピロ・スペロ

 何で、誘ってしまったんだろう。

 隠れ家への道を歩きはじめてすぐに、俺は後悔しはじめた。リリスの歩みが、思った以上におぼつかなかったからだ。その原因が自分にもあると思うと、急かすこともできない。後ろをついてくる頼りない足音を、気が遠くなる思いで聞きながら、俺は周囲に目を光らせ続けた。人気のない道を選んでいるとはいえ、どこにミクスドやGリーチに繋がる『目』が潜んでいるとも知れない。せっかく手に入れた隠れ家の位置を、特にミクスドには、知られるわけにはいかなかった。

 俺が隠れ家として使っている部屋は、北地区のオフィス街の中心から少し外れたところにある。外装工事の幕で覆われた、四階建ての雑居ビル。実のところ、その幕は目隠しで、入居しているテナントは存在しない。一帯にはこういった類のビルが散らばっていて、大概はどこかの企業や組織の隠し倉庫として使われているようだった。午前中のオフィス街だというのに、人の気配が極端に少ないのも、そういうわけだ。

 幕の端から身を滑り込ませて、ビルの裏口の鍵を開けた。ドアは、閉まると勝手に鍵が掛かる。リリスは物珍しそうに、ノブを握って軽く戸を動かし、本当に鍵が掛かっているか試した。「すごいね、こんな所に……」

「顧客の持ちビルなんだ。ブツ安く流す代わりに使わせてもらってる」俺は言いながら、リリスに背を向けた格好でしゃがみ込んだ。両手を腰の後ろにまわし、背後を軽く振り返る。「乗って。三階だから」

「えっ。だ、大丈夫だよ。自分で、」

「大丈夫じゃないのは、もう知ってる」視線を前に戻して、俺は言った。変な感情を込めないようにしようとしたら、あまりにもぶっきらぼうな声になってしまって、自分でひやりとする。

「……あ、……じゃあ、……ありがとう」背中に寄り添う、服を着た他人の感触が、体の感覚としてではなく、何だかくすぐったかった。拍子抜けするくらいに簡単に、リリスの体は持ち上がった。昨晩、ソファに寝かせるために抱え上げたときより、もっと軽くなった気さえする。

 肩に置かれたリリスの両手がよそよそしい。俺にしがみつくためではなく、体がくっつきすぎないよう上体を支えることに、その手は使われているようだった。触れているようで隙間のある背中が、余計にむず痒くなる。俺はちょっとだけ荒くリリスを背負いなおした。「ちゃんと腕まわせって。落ちるぞ」

「うん、ごめん、」頸に、細い腕が、ようやくまわってくる。背中いっぱいにくっついてきた温もりと、自分との境目が、階段を上っているうちに分からなくなってくる。裸で抱き合ったときよりよっぽど、ひとつになってる感じがした。急に跳ね上がった心臓の音が、体を通して伝わりそうで焦る。俺はもっと息があがるように、足の運びを早くして、三階まで一気に上がった。

 三階奥の部屋の前で、俺の背中を下りると、リリスは、「ごめんね、ついてきて」と、小さく呟いた。俺は鍵を開けて、中に入るように促した。いつもは全く気にならないのに、今日に限って、埃臭さが気になる。「思ったより、足、動かなくて。クスリ使われちゃったから、あんまり覚えてないんだけど、昨日、何人ぐらいいたのかなぁ……」

「座れば」俺は、部屋の隅に放り出していた毛布を拾って、リリスに渡した。包まる気がなくなるほど汚れてはいないと思うが、正直、きれいでもない、古いものだ。リリスは「ありがとう」と微笑んで、それを受け取った。

 正面に広く取られた窓の向こうは、工事の白っぽい幕で埋まっている。圧迫感より、外界から匿われているという安心感の方が大きかった。幕と幕の隙間から射す陽が、何もないつるつるした床に、幾本かの細い筋を描いている。部屋に入って左側の壁ぎわに、膝を抱えて座り込んだリリスは、爪先をかすめて通る光の道に気付くと、そこを指先で辿った。水の流れに指先を浸すように、右手で光の筋を混ぜ返す。

「ロスは、昼間、いつもここに来るの?」

「時間ができたときは」俺は正面の窓の下にある、ひしゃげたクッションに座った。「こことは別の仕事部屋もあるけど、そっちはボスに融通してもらった場所だから……、ほんとに一人になりたいときは、こっちに来る」

「そっか。ここはロスだけの、秘密の隠れ家なんだね」部屋を見回しながら、リリスは微笑んだ。

 そうだ。ここは俺だけの場所。ちょっとの食糧の買い置きと、ちょっとのゴミくらいしかない室内を、目を細めて見渡す。仲間も、ミクスドも、誰も知らない。ここは何もかも忘れて安らげる、俺の小さなあの世だ。他人がいていい場所じゃない。ましてやそれが〈子供通り〉の稼ぎ頭だなんて、ほんの少し前なら、絶対にありえないことだ。

「あのね、ロス」リリスの視線を感じたが、俺は投げ出した自分の足先あたりに遣った目を動かさずに、じっとしていた。「気にしないでね」と、リリスは言った。

「何を」

「……ううん。いいんだ。何でもない」

 本当は、分かっている。リリスが、何を気にするなと言ったのか。

 昨晩、彼を、抱いたことだ。

 俺がそれを引け目に感じて、隠れ家に連れて来る気になったのだと、彼は思っているのかもしれない。それはある意味では、当たっている。あんな状態の彼を抱いてしまったことを、何とか詫びたいという気持ちがないとは言えない。てのひらに刺さって取れない、小さな棘みたいに、見えないけど確かにそこには違和感と少しの痛みがある。もしかすると俺はそれを、彼を抱く前から、Gリーチに歓迎会をしてやると言われたときから、リリスに対して感じ続けてるのかもしれない。

 それはきっと、甘ったれた、クソみたいな感情だ。仕事として抱かれた彼にとっても、子供通り勤務の通過儀礼として彼を抱いた俺にとっても、申し訳ないなんて思うのは、バカげたことだ。俺は、罪滅ぼしをしなきゃなんて思って、汚い床の上に裸のままで寝入った彼を、毛布に包んでソファに寝かせたわけじゃない。足取りのおぼつかない彼を、家まで送ると自分から言い出したことも、そうだ。自分でも、自分がその行動に至った理由を、一から十まで説明することなんてできないけれど、少なくとも俺にとってこの時間は、引け目で連れてきた相手と、仕方なく過ごしている時間なんかじゃなかった。

 世界中でここしかない、俺の居場所を、リリスと分け合っている、今このときを、自然なことだと感じる。

「おまえさ、……おまえが、俺に気ィつかうことなんか、ないから、な」俺は軽く目を伏せたままで、言った。「酷いことしたのは俺なんだから、……ごめんとか、……おまえ、昨日から、何べんも言うけど……、もう、言うなよ」

「酷いことなんか、されてないよ」

「でも、……おまえを、…………したし、全部、おまえに動かせた」

「したとかされたとか、そういうことなら、したのは、俺だよ。ロスが嫌がってるの知ってて、乗ったんだから」俺は俯けていた顔を上げた。リリスは、膝の上で、俺が渡した毛布を、きれいに四角く畳んでいた。「Gと喋ってたの、聞こえてたのか……?」

「え? ううん、それは知らない、けど……、ロス、ずっと、すごく嫌そうな顔してたから」

「……悪い……」

「違う、謝らないで。そうじゃなく、て……」ふっと、マッチの火が風に揺れるように、リリスの睫が瞬きに合わせて震えた。「昨日も……言って、くれたよね。謝るな、って、その……、してる、とき……」

「覚えてない」

「そう」リリスは微笑んで、広げる気配のない毛布の角を、指先で撫でた。「俺、……自分でも、よく分からないんだけど……、ゆうべ、なんか、嬉しかったんだ。ロスが、俺を少しも抱きたがってなかったこと。変、だよね。嫌そうにされて、嬉しいなんて」

「おまえが……、嫌だったんじゃ、ない」

 そうだ、リリスじゃない。リリスを嬉々として犯していたリューたちが、俺には、餓鬼に見えたのだ。重なった。一番嫌な顔と、重なった。あいつらの顔は、俺を見下ろすミクスドの顔、そのものだった。

 俺はリリスの手から毛布を奪って、薄っぺらい体を包んだ。「寝ろよ」

「うん。でも、ロスは、」

「俺は元からそんな使ってなかったから。ほら、寝ろって」毛布越しの肩を押して、リリスを床に寝かせた。クッションを頭の下に押し込む。「あ、ありがとう」

「どーいたしまして」リリスは、俺の一本調子な返事に、焼きたてのパンのにおいくらい魅惑的な顔で微笑んで、目を閉じた。そのうちに、かすかな寝息が聞こえはじめる。俺もすぐに、眠気が強くなってきた。働きの鈍くなってきた頭が、何度も、ある、同じ方向に、考えを進めかけては、途中で止まる。

 自分がリリスの特別だって勘違いして、妙な真似するバカがいる。

 Gリーチの声が、頭に響いて、眠りにつかまりそうな体がびくんと震える。俺も、勘違いしそうになってるんじゃないか? 自分がリリスの特別だと思い込んで、ストーカーになって、いずれバカな真似をしてしまうのか? いや、もう、してるのかもしれない。あいつの家までついて行って、こんなところに連れてきて……。だけど。だけど、俺はただ、…………。暴力的な眠気が、俺の意識をごっそりさらって、沖へ走り去ってゆく。



「ロス、」肩を叩かれて飛び起きると、すぐ近くに美しい顔が迫っていて、心臓が縮んだ。その美貌がリリスの顔だと俺の脳が認識するまでに、一瞬の遅れがあった。「あ、ごめんね、びっくりさせた?」

「……いや、なに、」

「そろそろ、俺、行くね。ロスは時間、大丈夫?」

 幕の隙間から射し込んでくる陽の筋は、ずいぶん斜めに傾いて、色も濃い橙になっていた。

「あぁ……、道、分かるか」

「うん、大丈夫」

「…………体は?」

「大丈夫。また、後で。今日は本当に、ありがとう」

「別に何もしてない」

「そんなわけないよ」リリスは笑った。その笑顔が、夕陽の筋の向こう側に遠のいて、反転する。色素の薄い髪が、サイズの合わないシャツの背中が、橙の光から、薄闇の中に沈んでいく。

 このまま消えて、二度と会えなくなる。

 その実体のない恐怖は、あまりにもくっきりしすぎていた。頬の辺りの皮膚がそそけ立ったように強ばる。俺はリリスの背中を追いかけ、ドアノブに伸ばされた細い腕を、後ろから掴んだ。リリスは一瞬、びくっと体を緊張させて、俺を振り返った。「どう、したの」見上げてくる、大きな目。愕いた表情。ここにいる。よかった。リリスは、消えてない。ちゃんとつかまえてる。俺は安堵のあまり、涙が出そうだった。

 やっぱり、リリスは悪魔かもしれない。そうじゃなければ、どうして別れ際に二度も、こんな、わけのわからない行動を取ってしまうだろう。彼が俺から離れて行くのが、空気を奪われるようにつらい。そのまま帰すのがこわくなって、そんなことをしたら、この世が終わってしまいそうで、何とか、振り向かせたくなる。

 小さな顔を、両手で挟んだ。零れ落ちそうな瞳が、さらに大きく見開かれる。俺は固く目を瞑り、リリスの脣に、自分の脣を押し当てた。リリスはじっとしていた。薄く瞼を開いて見ると、入れ替わりに、リリスの瞼が閉じられるところだった。

 微かな音をたてて、脣の合わせ目の角度を幾度も変え、俺たちは脣を触れ合わせるだけのキスを続けた。このまま消えてなくなりたいほど、気持ちよかった。リリスの薄い体を抱き締めると、応えるように、リリスの腕が背中にまわされる。射し込む夕陽は見る間に褪せはじめ、重なったふたりの輪廓も、闇の中に溶けだしてゆく。

「……ロス、」触れている脣に名を呼ばれて、目を開けた。「おれ、ほんとに、行かないと、」わずかに顰められた眉の下で、リリスの大きな瞳は、夕陽のなごりを吸い込んで、ひそやかにきらめいていた。

 心臓の底から、発火した音が聞こえたのかと思った。その火は一瞬で燃え上がって、俺の耳の先まで熱く染めた。きつく抱き締めていたリリスの肩から、両腕を外す。まるで半身を剥ぎ取られるような苦痛が伴った。片足を後ろに一歩退く。「……、ご、ごめん」

 リリスは微笑むと、俺の胴に腕をまわして、抱きついた。ほんの一瞬だけ、俺の体がそこに存在していることを確かめるように、きつく。すん、と軽く鼻を啜る気配がしたと思ったら、もう離れて、滑るように扉を出て行く。背中をちゃんと捉えられないくらい、素早く出て行った。

 彼の姿が見えなくなってから、全身の脈が、烈しく騒ぎはじめた。喪失を取り返そうとするように、どくどくと暴れまわる。

 離れたくなかった。

 離れたくないと、リリスが、自分と同じように思っていたことが、触れ合ったところから、苦しいくらいに伝わってきた。

 なんて、嘘だ。そんなわけない。俺は、あいつが抱いた胴回りを、長く触れ合わせた脣を、手で何度も、強く擦った。他人の心なんて、絶対に分からない。分かったと思うのは全部、百パーセント全てが、妄想だ。勘違いするな。何のために、Gリーチは、俺たちにリリスをタダで抱かせた。あの悪魔に夢中になって、道を踏み外す奴が、これまでに大勢いたからだ。

 そうだ、リリスなんか、どうでもいい。俺が考えなきゃならないのは、Gリーチの方だ。どうにか時間を作って、Gリーチの尻尾を捕まえて、ミクスドの喜ぶ報告をしなければ。俺は力技で意識をそっちの方向に固定して、子供通りのジムショへと向かった。

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