19

スピロ・スペロ

 リンは、俺たちの隠れ家より北寄りの位置にある、古っぽいタイル張りのビルの前で、クルマを停めた。壁面には、会社名だろうか、ほとんど剥げかけていたが、何か屋号がついていたらしい痕が残っている。

「玄関開けて」と、鍵を渡された。俺は、すでに何センチか隙間が開いている玄関の柵を押し開けて、アプローチの短いスロープを上った。片開きのガラス扉は、見た目の割りに重く、外側に大きく引くと、ぎいっと錆びた音がした。背後を見る。リンはクルマごと中に入るつもりらしい。

 街灯に照らされたリンの愛機は、深い青色をしていた。長距離移動に適した、クルーザーと呼ばれるタイプの二輪だ。流線型の優美なボディに比べて、タイヤが野蛮にごついのは、砂礫の荒野を渡るためのカスタマイズだろう。

 開けた扉の脇に立って、目の前を通り過ぎるクルマに見とれていたら、「人目についたらヤバい状況なんだろ?」と、リンに急かされた。俺は通りの左右を確認してから、表の柵を閉め、玄関の扉も閉めた。同時に、ロックがかかる音がする。

 中に入ってすぐの左手側には、がらんどうの空間が広がっていた。路地に面した大きなガラス窓から、青白い街灯の光が射し込んで、床に厚く積もった埃を照らしている。以前は、ロビーとして使われていたのだろうか。ちょうどホテルの受付みたいな、横長のカウンターテーブルが、窓と向かい合った壁の前に放置されている。その机の上にも、埃はたっぷりと積もっていた。

「この窓、外から中が見える?」

「中が明るけりゃね。前の道の方が街灯で明るいから、見ようと思ったら窓に顔くっつけるくらいじゃないと見えないよ。心配しなくても大丈夫」

 リンは、玄関を少し入ったところで、クルマのスタンドを立てた。足元をよく見たら、ロビーの方に比べればマシだが、玄関の周囲も埃だらけだ。二輪のタイヤ痕と足跡が何往復分か、真っ暗なエレベーターホールの方へと続いている。普段はそっちにクルマを置いているんだろう。

「あんた、ここに寝泊まりしてんの?」

「道の上で立ち話するより安全でしょ」リンは、俺の質問にきちんと答えずに、ゴーグルを外した。「南地区の方が騒がしいみたいだけど、何かあった?」

「そういや、あんたさっき、子供通りの方から来たよな、」

「うん。様子を見に行ったんだけど、恐そうな兄さん方が、道の途中で〈引き返せ〉ってサイン出して通せんぼしてたから、大人しく戻ってきた」

「……子供通りが、敵に占拠されたんだ。俺はそいつらに追われてる」

「ラーテル、に?」的確なその言葉に、砂の下に隠れた虫が身じろぎしたように、警戒心が反応した。「……詳しいな」

「まぁ、ちょっと色々ね」リンはごまかしにもならないようなことを言いながら、革のライダースジャケットの裾に、さりげなく、手を持って行った。腋が冷たくなる。

〈外〉の奴だと思って油断していたが、まさかこいつも、ラーテルの仲間なのか? 今、銃なんか取り出されたら……。

「ねぇ、ロス。何なら俺、脱ごうか?」

 極限まで高まっていた俺の緊張を、リンのその意味不明の提案が壊した。無言で目を剥く俺に、「いや、なんか、ずいぶん警戒されてるみたいだから。丸腰の証明をね、」と目配せをして、リンはジャケットを脱ぎ、次はベルトに手をかけている。放っておくとここでパンツまで脱ぎかねない勢いだ。

「や、いいって、脱がなくていい!」俺は慌てて言った。

「あ、そう?」リンはやっと手を止めた。こんなときに、なんて、ふざけた野郎だ。思わずひとつ、舌打ちが出る。リンは服を直しながら、しれっとして話を続けた。「ロスはじゃあ、ラーテルから逃げるために、クルマが必要なわけだ」

「ラーテルっていうか、……ボスから、だけど……」

「ラーテルのボス? え、ロスって、敵チームのボスに目ぇ付けられるほど出世してんの?」

「いや、そのボスが、敵のボスになったのは、ついさっきだ」

「どういうこと?」

「さっきまで、そいつはヴィルジニズ・ヒドラのボスだった」

「ああ、……なるほどね」リンは腕組みをする。「ヒドラのボスが、ラーテルに寝返って、子供通りを占拠してるってわけだ。そりゃあ……びっくりだな。田舎のストリートギャングごときが、毒蛇にケンカ売るだなんて……」

「あんた、……なんでそんな、俺たちのことに詳しい……?」リンは、ちらりと一度、こっちに視線を寄越しただけで、黙っていた。薄笑いの口許に、寒気を感じる。街灯の射す角度のせいなのか、リンの瞳は、まるで涙を溜めてるみたいに、下半分だけちらちら光っていた。

「俺も仕事中だからさ、クルマは貸してやれないけど、おまえを後ろに乗せてやるくらいのことはできるよ。どうする?」リンは、愛機のシートを軽く叩いて言った。「ただし、ここからの乗車賃は、だいぶ高くつくけどね」

「金なんか持ってねぇよ」俺はリンにバレないように、静かに、細く、息を吐いた。

 リンのこのクルマは、昼夜関係なく長距離を走れる、特別仕様の高級二輪だ。〈外〉からこれに乗って来たのだから、当然、ゲートの通行許可コードだって搭載されてる。

 俺は、体の陰になった左の拳を、ぐっと握った。鼻から息を吸って、腹の底に溜める。このまま頭突きでも喰らわせて、鳩尾に拳をぶち込めば、二輪を奪うくらいの時間は稼げるはずだ。

「いや、金を生むものを、ロスは持ってるよ」リンのその声は、ロビーの何もない空間に、鮮やかに響いた。

「え……?」俺は、張っていた気と一緒に、拳も一瞬、緩めてしまった。その隙をついたように、白い顔が、すぐ傍まで近づいてくる。あまりになめらかで素早い動きに、首だけ飛んできたような錯覚をして、体じゅうの毛が、わっと立った。

「おまえの人生」と、リンは言った。「俺の、人生……?」鼻が触れ合うほどの距離で、リンは頷く。「そう。この後、十年か二十年くらい、若い内のおまえの人生をくれるっていうんなら、喜んで助けるよ」

「俺の人生を、あんたに、やる……?」

「おまえは友達だし、困ってるなら助けてやりたいけど、立場的に、無償でそれはできないんだ。路上の子供なら、なおさら」

「運び屋って、〈外〉では立場とか考えなきゃならないような、高級な仕事なわけ?」俺の皮肉に笑いもせず、リンは、「人間社会で生きてりゃ、立場は勝手に付きまとってくる」と言った。

「助けた俺の人生を、あんたは、どう使うつもりだ」

「おまえの人生は、おまえのものだ。誰に救われても、俺に使われても。それは覚えとけ」リンは、俺の顔をまともから見てそう言った。視線を落として、一つ、瞬きをし、再び目を合わせてくる。「もしおまえに、〈外〉の娼館で娼妓として働く気があるなら、おまえをこの町から連れ出してやれる」

「逃げてるの、俺だけじゃないんだ。それでも、助けてくれるか」俺は間を置かずに訊いた。

「そいつはおまえくらいの美形か?」

「……金にならなきゃ、助けないってわけか」

「見返りなしに危険に晒せるほど、安い体じゃないからな」リンは言った。彼は、俺たちを売れば金になるから、そのために危険を冒すのだ。純粋な善意で助けられるよりは、その方が気が楽だった。

「子供通りの〈リリス〉って、知ってるか」俺は言った。

「おまえが逃がしたいのは、〈リリス〉か……なるほどね……、」リンは、何か、聞き取れない言葉を口の中で呟いて、窓際に移動した。おぼろな街灯の光に照らされると、埃の上についた足跡が、まっさらな砂漠を行く足跡みたいに美しく見える。

「どうしておまえら、別行動してるんだ?」リンは、背中で言った。窓の外に何かの気配があるのか、路地の左右を気にしているようだ。だが、遠いパトロールのサイレンの音以外、何も不審な物音は聞こえてこない。人通りも、全くなかった。

「具合が良くないんだ、ずっと……。腹が痛むみたいで、あんまり食わないし……血も吐いた。薬が効きにくいとかで、熱も全然下がらなくて……」

「なら、先にリリスを〈外〉に運ぼう。早く医者に診せた方がよさそうだ」

「いいのか……?」

「そりゃこっちのせりふだよ。さぁ、リリスを迎えに行こう。お前、運転できるよな」

「もちろんだ」答えたとき、聞き覚えのあるエンジン音が、耳に入ってきた。「リン、窓から離れろ」

「見えないから大丈夫だって。知ってる奴のクルマ? こっちに来る……」

「ミクスドのだ。ボスの……」俺も窓の傍に寄った。エンジン音はどんどん大きくなって、もう、すぐそこまで迫っている。上半身全部が心臓になったみたいに、バクバクして、息が浅くなる。視界に、ミクスドの二輪が入った、瞬間、俺は玄関の扉を開け、路地に飛び出した。

「おい!」叫ぶと、ミクスドの二輪が急ブレーキをかけて停まった。

「よう、」振り返ったGリーチは笑顔を見せ、すぐに顔をしかめて口許に手を遣った。舐めた唇に血が滲んでいる。よく見れば、Gリーチの顔は傷だらけで、特に右の眉の上は大きく腫れ上がり、血をこびりつかせていた。

「それ、ミクスドのだろ。どうやって、」

「笑っちまうほど簡単だったぜ。何しろあいつ、俺が潜んでるのに気づきもしねぇで、いつも通りにジムショの下にクルマ停めやがったんだから……」言いながら、Gリーチは視線を、俺の背後に向けた。玄関のところに出てきたリンは、「まだ話続けるんなら、中に入れ」と、低く言った。

「おまえ……、前にこいつと映画館にいた……」Gリーチはクルマから下りない。右手と、チェンジペダルに乗せられた左のつま先が、いつでも逃げられるように緊張している。近づいてきたリンは、Gリーチの乗ったクルマに険しい目を注いで、「その機体じゃ、ゲートは通れない」と言って、ビルの中に戻った。すぐに、自分のクルマを押して出てくる。

「これに乗って行け。正規の通行許可コード付きだ。ゲートまでの行き方は分かるか?」Gリーチの真横にクルマを付けて、リンは早口に言った。だが、Gリーチはまだ動かない。

 リンは、てのひらに乗るサイズの紙切れを、胸のポケットから取り出して、その裏に何かを書き付けた。「道案内だ。何かあったときはこっちを」そう言って表を示し、Gリーチの方へ腕を突き出した。取りに来いというように、紙片を上下に動かす。渋い顔でクルマを降りて、Gリーチはリンの正面に立った。受け取った紙片に目を落としたかと思うと、勢いよく顔を上げる。

「どういうことだ、」裂けるほど見開いた目で、Gリーチはリンを凝視した。

「こっちは、リリスも入れて三人だ。四輪を手に入れるから気にしなくていい」リンは、落ち着き払った声で答える。

「おかしいな。あんたら、いつから慈善家になったんだ?」

「そんな酔狂はもちろんしないよ。何か理由が必要なら、きみがこれまで〈リリス〉を守ってくれていた、その礼だとでも思ってくれ」

「……っざけんな……!」その語尾が、震えた、と思ったときには、Gリーチはリンの胸ぐらを掴み上げていた。リンの足が地面から完全に浮く。「おまえら、全部、知ってたんだな? あいつがどんな目に遭ってるか知ってて、今まで、こんなことになるまで放っといたくせに、礼だと……? 俺たちを何だと思ってる!」

「おい、G、」駆け寄って乱暴をやめさせようとしたが、真っ直ぐGリーチを見つめるリンの横顔が、あまりに落ち着いていることに気づいて、俺は動きを止めた。

「この町の子供に手を出しづらいのには、それなりの理由があるんだ」声も、全く落ち着いている。「その中でも、リリスの状況は定期的に確認していたし、こうして今、きみたちの逃亡を手伝おうともしている。これが、我々にできる最大限の助力だと、理解してくれ」

「何を偉そうに、……ッ」破裂音がして、Gリーチの足許に火花が散った。俺は思わず頭を覆って、辺りを見渡した。よろけたGリーチの手から逃れたリンは、さっきまでGリーチが乗っていた、ミクスドのクルマに飛び乗った。聞き慣れたエンジンの始動音と前後して、さらに二発、地面の石礫が砕ける。

「恨み言の続きは〈外〉に出てから言いに来い! ロス、早く!」

「ああ!」俺は急いでリンの後ろに跨がった。すぐにクルマは西方向へと走りだす。後方で、また、複数の破裂音がした。一体、相手はどこから撃ってきているのか。周囲にそれらしい人物の影は見当たらない。遠距離から狙えるような大型の銃は、南地区には出回っていないはずだが、ラーテルの連中が密かに仕入れている可能性はあった。

「クソ野郎、礼は言わねぇからな!」Gリーチの叫びが届いた直後、リンのクルマのエンジンが、野獣のように吠えた。俺は後ろを振り返る。闇の中に浮かび上がった赤いテールランプは、俺たちとは逆方向に、あっという間に遠ざかっていった。

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