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息する限り、希望する

 シルフは、Gリーチと暮らしていたアパルトに、今は1人で住んでいる。元々、Gリーチが住んでいた部屋に、決まった住居を持たなかったシルフが転がり込んだ形で始まった、同棲生活だった。

 主のいない、真昼間の明るい部屋。

 ふたりで寝てもじゅうぶんな大きさのベッド。へこまなくなったもうひとつの枕。明るい日の射す出窓には、手先の器用なGが折った鶴が、何羽か、羽根を休めている。キャンディの包み紙や何かの広告の切れ端から生まれた鳥たちの羽は、みんな奇麗な色をしていた。

 それなのに、窓辺の風景は陰鬱なものに思えた。なぜか、なんて決まってる。シルフは逃げるように部屋を出て、狭い階段を急ぎ足で上がり、屋上に出た。

 Gリーチと住んでいたときだって、昼間に彼が帰ってこないことは多かった。ほかの愛人の家に行っていることもあったし、映画を見に行くことも度々あったようだ。そういうときの、昼間の静かな時間は、全然、淋しくなんかなかった。誰にも干渉されずに眠れる、ひとりきりの空間を、贅沢に感じていたくらいだ。

 でも今は、あの部屋にひとりでいて、そんな安楽な気分になることはない。Gリーチが帰ってくると知っていたからこそ、ひとりの時間が愛おしかったのだ。それを思い知った。

 彼はもう、ここへは帰らないだろう。

 もし、帰ってきたところで、私のこの顔を見たら――銃弾を受けて崩れてしまった、あの人が好きだと言ってくれた、この顔――さすがに、こんなのは俺が愛した顔じゃないと眉を顰め――いいえ、そんなわけが、ないのだ。あの人は絶対、そんな別れの切り出し方はしない。

 いっそ、そのくらい残酷な人だったなら、よかった。誰もが恐れた《子供通りの番人》、その噂通りの、無慈悲な男だったなら。

 シルフは、浅い息をそろりと吐いて、屋上のベンチに腰を下ろした。顔の左半分を覆うガーゼの上に、軽く手を乗せる。

 帰ってこない方がいい。やっと、《外》に出る切欠を得られたのだ。この傷痕を見て、私への同情や責任感で、またこの街に縛り付けられてしまう彼なんて、見たくない。


     ◆


 ミクスドによる〈ラーテル〉の蜂起から、もう、2ヶ月が過ぎた。

 軍が見て見ぬふりをすることによって成り立っていた、ストリートギャングによる南地区の自治は、ついにその軍の介入によって終わりを告げることとなった。ラーテルだけでなく、ヴィルジニズ・ヒドラも解体され、ギャングが消えた南地区には、学校の建設計画が発表されたばかりだ。

 しかも、建築作業や、付随する事務作業に従事し、暴力沙汰など大きな問題を起こさなければ、元ギャングだろうが、街娼だろうが、薬物依存だろうが関係なく、5年間は授業料免除で、その新しく出来る学校に通う権利が与えられるらしい。

 シルフは、この町で生まれた人間ではない。十人並みのろくでもない事情があって、この町に流れ着いたのが、ほんの数年前のこと。一応、高校も卒業しているから、学校建設の話は、彼女に直接の恩恵があるわけではなかったが、南地区生まれの大多数の人間にとっては、良いことだと言えるだろう。

 もちろん、そんなことができるのなら、この国は、どうして今日まで、年若い街娼で溢れ返るこの町を放っておいたのだ、という腹立たしさもある。

 ギャングが一掃され、学校ができるからといって、街娼で食い繋ぐ若者がいなくなるわけでもないだろう。元々の成り立ちは別にしても、この町は現在、基地のために存在している。彼らの息抜きのための酒場や遊技場、一晩の戯れの相手は、ストリートギャングのように切り捨てられるものではない。

 基地がある限り、〈子供通り〉に金が落ちる。金が生まれる場所に、人は集まる。金がなければ、誰も、生きてはゆけないのだ。

     ◆


「シルフぅ、探しちゃったぁ」

 ジャージの下の胸をゆさゆささせながら、明るい声で屋上に姿を見せたのは、マリーンだった。

 シルフが銃撃を受けたとき、彼女はその真後ろにいたおかげで、被弾せずに済んだ。階段を転がり落ちて、背中と尻に派手な擦り傷をつくり、足首の骨に皹が入りはしたのだが。もう1人、一緒にいたターニャも、弾丸は腕を掠めたくらいで助かっている。

 病院で目覚めて数日後、見舞いに来たマリーンとターニャを見て、シルフは心底、安堵した。狙撃主の狙いが、Gリーチの恋人である自分だったと、彼女は確信していたからだ。巻き込んでしまったことを謝罪すると、2人は、「狙われたのは自分である」という無理な持論をそれぞれに繰り出して、シルフの気を軽くしようとしてくれた。

 それまで、シルフは正直、マリーンのこともターニャのことも、街娼仲間の中ではウマが合う方、くらいの認識しかしていなかった。顔も恋人も職も失って初めて、友情、なんて言葉を意識した。最悪の経験の中で、それだけが、唯一の救いだった。

「ああ、そうだったわ、ごめんなさい。さっき電話で部屋にいるわって言ったんだった」シルフは、部屋で憂鬱に浸る前にかかってきたマリーンからの電話に、自分でそう答えたことを、やっと思い出した。「ダメね、私。ボーっとしちゃって」

「そぉよぉ、玄関の鍵開いてたから、トイレの中まで探しちゃったぁ」マリーンは口紅の塗られていない脣で笑った。シルフの座っているベンチのところまでやってくる。「お土産のヨーグルト、勝手に冷蔵庫に入れてきちゃったよ」

「ありがとう。そういえば、ターニャ、無事に《外》に脱出できたんですって?」

「えーっ、あたしが今から言おうと思ってたのに、情報早ぁ」マリーンは残念そうに口を尖らせた。「でもそうなの、あのオジサマ付きの青年将校くんったら、地味な顔してやるわよね。毎日のようにターニャのとこにお見舞いとか持って来てさ、アピール凄かったんだから。あんな熱心な口説き方されたら、もぉ落ちるしかないよねぇ」

「マリーンは、……これからどうするか、もう、決めたの?」

「あたしはもう少しここに居るつもり。基地がある限り仕事はあるし、Gのおかげで、お金もちょっと貯まったしね。とりあえず、あたしらを守ってくれるギャングはいなくなっちゃったわけだから、残った街娼集めて自警団とか、組合みたいなのつくってぇ、その後は、年取っても出来そうなお店とか、何か考えてみよっかな、って」

「そう。あなたが中心に立ってまとめてくれるなら、きっと上手くいくわね」

「ありがとぉ。シルフも、手伝ってくれたら嬉しいんだけど」

「……そうね。これじゃ娼婦はできないだろうから、」ガーゼを示して、シルフは苦い顔で笑った。「私で役に立つことがあるなら、協力したいとは思っているんだけど」

「どぉしてぇ?」マリーンは、付け睫毛のない素のまばらな睫毛を瞬かせた。

「どうしてって、だって、この下、酷い顔よ」

「穴が無事なら仕事できるわよぉ。おっぱいのない娼婦も、胃がほとんどない娼婦もいるよ。顔が半分だって全然平気だよぉ」あっけらかんと、マリーンは言ってのけた。

「そう言われると弱いわね」シルフは眉を下げて笑う。マリーンは、奇麗に化粧しているときと同じくらい魅力的な、大きな笑顔になった。「でっしょぉ。絶対大丈夫だって、」

 そのとき、屋上の扉が開く音がして、シルフとマリーンはほとんど同時に、同じ方向に顔を向けた。

「……あッ、……あの、……突然、すみません、声が聞こえたものですから、」その青年は、斜めになった眼鏡を片手でずり上げながら、扉の陰から、恐々といった様子で、屋上に出てきた。「あ……と、その……すみませんが、どちらが、シルフ、さん、でしょうか……」

「あんた誰ぇ?」マリーンが渋い顔をして訊く。

「あっ、……その、ぼくは、グレイ・リーチの使いっていうか、実は……、これ、」そう言って、ズボンのポケットから、端の折れ曲がった紙切れを取り出した。「お手紙、を、預かっていて、」

「いつ?」今度はシルフが訊ねる。

「いつ、っていうと、その、2ヶ月ほど前、ということになりますけど……」

「Gが《外》に行っちゃう前に、キミに手紙を託したってことぉ?」マリーンはまだ訝しげな顔だ。

「そういう、ことです」青年は大きく頷く。

「どぉして配達が2ヶ月後なのぉ?《外》からの郵便でももっと早く届くんじゃなぁい?」

「え……っと、それはその、お恥ずかしいことですけど、……こちら側に来るのに、……勇気、が、少々、必要……で……」

「ふぅうん……、へぇえ……」マリーンは青年の顔を右から左からと角度を変えてしげしげと眺める。「そうは見えないけどぉ、キミって、北地区のお坊ちゃまなんだ?」

「あ、そうです。いや、お坊ちゃまってレベルの家庭ではないと思うんですけど、北地区に住んでるのは、住んでます」落ち着きなく何度も頷きながら、青年は言った。

「やだ嫌味っぽぉい」大きな仕種で肩を竦めたマリーンの脇から、シルフの長い腕が、青年の方に伸ばされた。「手紙をちょうだい。シルフは私よ」

「あ、やっぱり」少し表情を緩めて、青年はシルフの方に足を踏み出した。

「ちょっとぉ、どういう意味、」マリーンは怒らせた肩を、前進しはじめた青年の胸に突っ込ませる。華奢な青年は、「おっ……ふ」と変な呻き声を発してよろけた。その拍子に落ちた紙切れが、シルフの足もと近くまで飛んでくる。マリーンは、蹲ってしまった相手を見下ろし、「よっわぁ」と口もとを広げた左手で隠した。

「…………あのっ、変な意味じゃ、なく、……っげふ、」胸のところを押さえたまま、青年は顔だけ上げた。一層ずれた眼鏡の上から、ふたりの女を上目に見つめる。「ただ、グレイの恋人は、すらりとした美人だって聞いてたんで、それで、こちらの方かなって……」

「つまりあたしはチンチクリンのブスだって言ってんのね?」背を屈めて、マリーンは青年相手に凄んだ。ほとんど化粧をしていないので、ごく薄い眉毛の辺りに、迫力が宿っている。

 シルフは、そんな2人のやりとりを横目に、飛んできた二つ折りの紙切れを開いた。

 見覚えのある、きっちりした字が現れる。

 目で3回、繰り返して読んでから、顔を青年の方へ向けた。彼は、足もとをふらつかせながらも、どうにか立ち上がろうとしているところだ。

「G、なんですって?」青年をいじめるのにも飽きたらしいマリーンが、シルフのところに戻ってきた。

 シルフは、再び手紙に視線を落として、そのまま、呆けたような表情で、呟いた。「……かならず、迎えに来る、って……」

 マリーンが、まん丸にした目で手紙を覗き込み、その文面を確かめてから、シルフに抱きついた。「ほんとだ、よかったじゃない、シルフ……!」

「……でも……、……あの人、この傷を見てはいないのよ……」困惑の色の強い顔で、シルフは顔の包帯に持っていきかけた手を、途中で止めた。拳を握って、膝の上に戻す。

「そんなの、Gが気にする?」マリーンはそう言って、抱きついていた手を解き、シルフの隣に掛けなおした。

「……そう思うわ」シルフの声は低い。

「俺が気にしないと言っても、あいつは気にするだろうから、良い医者を探す、金儲けもする……!」青年が、いきなり声を張り上げてそう言った。両足を開いて、片手を胸に置き、雄雄しいと言えなくもない表情で。シルフも、マリーンも、丸くした目を彼の方に向ける。青年の顔が、そこで、急に真っ赤になった。

「……って、グレイが、言ってました……」一瞬前の勢いをすっかり失った、元通りのしどろもどろな調子で、青年は続けた。「ええと、その……ぼくも……、もうすぐ、ぼくも、《外》に、帰るんです。高校までは、通信でやってたけど、大学からはちゃんと、学校に通いたいと、思って……だから……その……、……ぼく、将来、……医者に、なろうと、思っていて、だから《外》に出たら、そういう、手術が上手なお医者さんとか、ぼくも、探しますから、……だから、どうか、気を落とさないで、グレイを、待っていてください……!」

 シルフの脣は開いていたが、声は、出なかった。同じく開いた目で、瞬きを繰り返すばかりだ。

「ってゆぅかぁ、キミさぁ、どうやってGとそんな仲良くなったわけぇ?」マリーンは、組んだ脚に肘をついて頬杖をした。「相手が南地区のギャングだって、ひと目で判ったでしょぉ?」

「それは……、花壇の花の植え替えをしていたら、手伝って、くれて……」

「花壇の花ぁ?」

「あ……、」シルフは、やっと現実に戻ってきたような顔つきで、青年を見た。「あの人、蜂に刺されたって言ってたけど、……本当だったのね、」

「あ、はい、その節は、ご迷惑をおかけしてしまって、」

 シルフはベンチから立ち上がった。彼女の方が、青年よりずっと背が高い。

「ありがとう。さっきの言葉、とても嬉しかったわ。それに、こんな所まで手紙を持ってきてくれたことも。本当に、ありがとう」青年の手を握って、シルフは微笑んだ。

「いいい、いいえ、そんな、とんでも、ないことです……!」背すじを反るほどに伸ばして、青年は返した。

「キミ、童貞捨てるなら、こんなキレイなお姉さんがいいなぁ〜って、思ってるでしょぉ」真っ赤な頬で、目をきらきらさせてシルフを見上げている青年の耳には、マリーンの下品な茶々も聞こえないようだ。

「そうだ、マリーン。さっきの話だけど、私でよければ、手伝うわ」まだぽわぽわした顔で突っ立っている青年をその場に残して、シルフはベンチに座りなおす。

「ほんとぉ、やったぁ! 百人力だわ」マリーンは、隣に戻ってきたシルフに抱きついた。

「ここは、グレイが守っていた街だもの。この私が、何もしないでいるわけにはいかないわよね」

「その意気よぅ! 新入りの童貞君にできてた仕事が、私たちにできないわけないっ」マリーンは元気よく拳を突き上げる。

「だから、ロスの童貞は私が奪っちゃったんだって」シルフは笑って、マリーンの拳の先から、空を見上げた。

 どうか、この空の下にいる人たちが、みんな幸せでありますように。

 そんなバカみたいなことを願いたくなるくらいの、ただただ、青い空だった。


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