04

標的

 ダーツが的に飛び込む、歯切れのいい音が、高い天井に響いている。

 フィル・トップセルは、規則正しく続くその音を聞くともなしに聞きながら、机の手前に並べた数枚の写真を眺めていたが、やがて、その写真も一枚ずつ拾いあげて、机上の写真の山の中へと残らず放り込んでしまった。

「もういい。リン、片付けてくれ」フィルは紙巻煙草を銜えて、火を点けた。

 窓を背にした彼のデスクの前には、四つの事務机が鼻面を突き合わせて、一つの島をつくっていた。その中の、フィルから見て右側手前の席から、銀髪の少年、リンが立ち上がる。彼は、左右にも上下にも体を余り揺らさない、どこかぎこちない動きで、フィルの机の前までやって来た。大量の写真をその場で雑に一つにまとめて、自分の席に持ち帰る。それから回れ右をして、オフィスと一続きになった簡易キッチンへと入っていった。

「何か有益な情報は見つかりましたか」

 オフィスの出入り口すぐの、何もない空間を利用して、ダーツに興じている黒髪のダークスーツが、そう言った。口を開いても、矢を放つリズムは狂わない。彼の立っている位置から、ダーツボードの掛けられた壁まで、軽く六メートルはあったが、まるでその距離が適正であるかのように、黒髪は涼しい顔で遊んでいる。

「そうだな……、やはり、ヴィルゴが自ら撮った写真は、最初の数枚だけのようだ」

「その情報のどこが有益なのでしょうか」

 ばっさり切り捨てて、彼はまた矢を放つ。ボードには五本目の矢が突き刺さったところだが、点を数えようにも、そこにはスパイダーもブルも、何も見えない。その代わりに、穴だらけになった、顔写真らしきものが貼り付けてあった。最近では見慣れた、その妙な的を見遣ったフィルは、軽く眉を上げて、煙を吹いた。「おまえに《ヴィルゴ》の調査を任せるべきではなかったな」

 爽快な音を立てて、的になったヴィルゴの顔写真、その左目に、六本目の矢が刺さる。同じ瞳には、すでに一本、先着の矢が刺さっているが、そこから一センチも離れていない位置だった。

「仕事ですので、どうぞお気になさらず。溜まったストレスも、こうしてその日のうちに晴らすことができますし、問題はありません」彼は次の矢を構えるついでのように、その黒々とした目をフィルの方に流して、言った。

「俺は心配だ。これが癖になって、ヴィルゴの顔を見た途端に、」と、またそこで、金色の矢が高らかに音を立てる。最後の矢は、ボロボロになったヴィルゴの写真の、眉間に突き刺さっていた。右目に二本、左目にも二本、額と、鼻のてっぺんと、眉間に一本ずつ。フィルは苦笑まじりのため息を吐く。「きれいな顔面を思わず蜂の巣にしちまった、なんてことはやめてくれよ」

「頼みごとなら約束しかねますが、ご命令なら従いましょう」

「命令だ」フィルは軽く息を吐いて、立ち上がると、凝りをほぐすように頸と肩を軽く回した。背後の窓際の隅に置いてある、山鳥椰子の鉢植えの方に、何となく足を向ける。ブラインドの羽根はごく薄く開かれていて、そこから午後の陽がひそやかに射していた。青々した葉の中に、黄色く変色した葉が一枚だけあるのに気づく。

「どうぞ」リンが、薄青い硝子の灰皿を持ってきて、机の端に置いた。すぐに戻ろうとする彼に、フィルは、「一枚だけ、駄目になっている葉がある。こいつの手入れだけ怠ったか?」と、指先で挟んだ黄色い葉を、軽く揺らしてみせた。

「いえ、全ての葉に平等に接したつもりでした」真面目に答えただけらしい、リンのその物言いに、フィルの目もとが緩む。

「同じ土、同じ幹から生えて、同じ肥料、同じ水を吸い、同じだけ日に当たり、同じだけ手をかけられても、駄目になる奴は駄目になる。この差は、いったいどこから来るんだろうな」

 リンは無表情のまま、ただ、その質問の意味を量りかねたように少し黙ってから、「すみませんでした。適切に処置しておきます」と頭を下げた。

「なぜ謝る必要がある。ただの疑問を、答えを期待せずに、戯れに口に出したというだけだ」

「そうですか……」リンは表情を変えずに呟いて、席に戻った。フィルの机から持ってきた山ほどある写真を、裏面に書き入れられた通し番号順に並べはじめる。百枚もある写真には、全身をナイフで切り刻まれ、気まぐれな銃弾を浴びて殺されていくジョナサン・ペロシの姿ばかりが、はっきりと写されていた。

 通し番号《100》、最後の写真には、すでに死体になっているペロシの顔が、大写しにされている。開いた口の中に詰め込まれた、ひしゃげた物体。切断面がこちらへ向いているので判り辛いが、それは、彼自身の切り取られたペニスだった。

『全身に、ナイフか銃弾、もしくはその両方による傷痕を散らし、切り取られたペニスを口に捩じ込まれた、男の死体』

 それが、ジーグラ・ファミリー秘蔵の暗殺者、《ヴィルゴ》による、殺しの印だ。あまりに特徴的なやり口であるため、模倣犯による事件も含まれている可能性もあるが、この半年の内にヴィルゴが暗殺したと見られる死体の数は、すでに五十を超えていた。

 ものすごい数だ。しかしフィルが《ヴィルゴ》について、乗り気でない部下の手まで借りて調べている理由は、彼の派手な殺人遍歴によるものではなかった。

 フィルが《ヴィルゴ》の噂を知ったのは、今から、一年近く前のことである。まさかその半年後に、暗殺者として裏社会に名を轟かせはじめるなどとは、当時は考えもしなかった。フィルはその名を、ラス・ジーグラが長年、自室で寝食を共にしている、超絶美形の秘蔵の愛人の名として、知ったのである。

 最初に得た情報は、とにかく、美しい人間である、ということだった。この世に比肩するものがないほど美しい人間である。まるで神話のアフロダイトだ。たったそれだけのことでも、《ヴィルゴ》という存在にフィルが興味を持つには、じゅうぶんすぎる情報だ。それが犯罪組織の首領であり、美術狂いのジーグラの愛人である、というのが、また良かった。

 俺はようやく、求めていた相手を見つけたのかもしれない。

 そのフィルの期待は、後に手に入れることのできた、一枚の《ヴィルゴ》の顔写真によって、なお一層、熱く膨らんだ。

 フィルにとって、その写真の《ヴィルゴ》は、理想の顔をした現実、そのものだったからだ。

 電話が鳴りはじめる。内線であることを確認して、リンが受話器を取った。

「『地下よりボスへ。ジーグラのワンちゃん一匹捕獲成功』」少年は、電話の内容をそのままフィルへと伝えた。

「『俺が行くまで、よその犬にあまり怖い思いをさせてやるな』」と、仰っています。今度はフィルの言葉を、そのまま受話器の向こうへ復唱する。

「『りょーかい』」語尾にアクセントを置いた軽薄な声で、電話は切れた。

「やりすぎてなければいいが……」フィルは呟いて、微かに目を細める。

「そんな甘い期待は持つだけ無駄ですよ。あの男の『やりすぎ』のラインは、我々の考えている所から、はるか彼方にありますから」ダーツで遊ぶのを止めて、黒髪の男は、自分のデスクに戻った。机上に並ぶ、上段二面、下段三面のディスプレイが、向かいのリンの机とのパーテーション代わりになっている。上の二つは、このビルの監視カメラの映像だ。下段の中で一番暇をしているディスプレイに、彼は表計算ソフトのファイルを開いた。最新のものと同期してから、列を整理し、日付と人名だけの簡素なリストにして、シート別に二種類プリントアウトする。

「ペロシ氏暗殺以降は、報告通り、新しい死体も出ていないようです。ハンドレッドアイズの方は、私が先に行って様子を見てきます」フィルの机にその二枚の表を並べて置いてから、黒髪はすぐに踵を返した。

「ティトラカワン、いいよ、俺が行こう」手を挙げて黒髪の男に呼びかけたのは、彼の左隣の席で今の今まで黙りこくって自分の仕事に集中していた、赤毛の男だった。挙げたてのひらは異様に大きく、肩幅や座高を見ても、190センチはあるフィルを楽々超える長身なのがわかる。歳も、フィルよりさらに上だろうと思われた。

 ティトラカワンは、大男の後ろを通るときに、わずかにだけ歩く速度を緩めて、「あなたが先に行けば、ハンドレッドアイズが張り切って調子に乗るだけです」と断じた。すぐに元の歩き方に戻って、背の高い扉を潜り、隣接したエレベーターホールに出て行ってしまう。赤毛はそれを見送ると、息を吐いて笑った。

「ああ言ってましたが、ダーツぐらいじゃ、ストレスは晴れないようですね」

「ボスの愛人やってる美形で高飛車な暗殺者、なんて人間は、あいつにとって、型に嵌まったつまらん存在でしかないだろうからな」フィルは銜え煙草のままで椅子から立ち上がった。「まぁ、おまえが行ってもハンドレッドアイズが調子に乗るだけだという点に関しては、俺も同意見だが」

「お恥ずかしい限りです」

 フィルは、山鳥椰子の陰に立て掛けられた姿見の前に移動した。外していた背広の釦をとめ、額を出して軽く撫で付けた前髪に、指先をほんの少しだけ通す。「リン、」鏡越しに呼ぶと、少年はすぐに立ち上がってフィルのすぐ後ろまでやってきた。

「俺が戻るまでに、ラス・ジーグラの写真をありったけ……少なくとも百枚は、集めておけ。顔のちゃんとわかるやつがいい。後で、楽しい工作の時間が待ってるからな」

「かしこまりました」

 少年の無表情を一瞥して、フィルは席に戻り、煙草を灰皿に押し付けて消した。ティトラカワンの用意した紙片を、四つ折りにして隠しに突っ込む。

「アルゴス、カメラはおまえが持ってるんだろう?」

「はい、ちょっと待ってください、すぐですから」デスクの抽斗を漁って、薄っぺらいカメラを書類の間に見つけると、アルゴスは慌てて先を行くフィルの背中を追いかけた。

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