05

妖怪と巨人と神

 先日殺されたペロシと、フィル・トップセルが共同経営していた投資会社の、極東支社という名目で建てられたこのビルの地階には、長方形の、だだっ広い空間があった。

 時に闘鶏や闘犬の会場となり、武器庫となり、刺激的なラブアフェアの現場にもなるその部屋は、少し前までは幼稚園と化していたのだが、それも片付いてからは通常通り、《ラーテル》幹部の射撃練習場として使われている。扉を入って正面奥、手前の壁から六〇メートルほどの距離を隔てた壁際には、人間の上半身を模した射撃の標的が、仲良く三体並んでいた。

「余計なことはしていないでしょうね」

 尖った声が部屋の中にこだまする。青い毛の男、ハンドレッドアイズは、部屋の真ん中にしゃがんだ格好のままで、背後に頸をめぐらした。「あれ、鍵開いてた?」

「このビルのセキュリティ管理をしているのは私です」分厚い扉を自分で開けて中に入ってきたティトラカワンは、ハンドレッドアイズの向こう側に跪いた人間に気づくなり、足を止め、いつも眉間に刻んでいる皺をさらに濃くして、口もとを右手で覆った。「……裸にして縛り上げろだなんて指示がいつありました?」

 そこに転がされた男は、全身を擦過傷や痣で飾られていた。足首から先はおかしな方向に捻れている。ハンドレッドアイズの私物に違いない、革の猿轡まで嵌められていたが、その容姿が優れていることは一目瞭然だった。この美貌では、自分がジーグラの手先だと、全身で宣伝しているようなものだ。

「だあって、妙なモン隠し持ってっかもしんねーだろー?」ハンドレッドアイズの顔中に、所狭しとつけられたピアスが、歪んだ笑顔に擦れ合って、カチャカチャと音を立てる。

「すぐに服を着せてください」

「えー、これからが楽しいのに」

「じきにフィルも来ます。不興を買いたいんですか」

「あーあ、つっまんねーのー」不平を垂れつつ、ハンドレッドアイズは、部屋の脇に投げ捨てておいた男の衣服を持ってきた。

「下着からすべて着せるんですよ、さぁ早く」

「へーへー」円錐形のピアスが牙のように突き出た下脣をひん曲げて、ハンドレッドアイズは指に引っ掛けた男の下着を、くるくると回した。

 ティトラカワンは彼らに背を向けて、イヤーバルブを嵌めながら、左端の標的の前に移動した。懐から拳銃を取り出した、と思った次の瞬間には、もう撃っている。的の眉間のど真ん中に、小さな穴が空いた。

 男の曲がった足にトラウザーズを無理やり穿かせながら、ハンドレッドアイズは顔を上げて標的を見遣ると、口笛を高く鳴らせた。彼もすでにイヤーバルブを着けていたが、これは一般的な耳栓とは違い、衝撃音のみを遮るもので、つけたまま会話することも可能だ。

「念のために言っておきますが、あなたは今このとき、《ラーテル》という組織に所属している、《ハンドレッドアイズ》と呼ばれる構成員です。それが……」

「わーってるって。ラーテルの名の下にレイプは禁止、ってんだろー? ミミタコだよ」ハンドレッドアイズは縛られた男の方に顔を戻して、にたりと笑った。「なぁ、キレーなワンちゃん。俺、まだキミに、なーんにもエッチなことしてねーよなァ、」

 うつむいた男の金の前髪を掴んで、顔を上げさせる。そうしてハンドレッドアイズは、猿ぐつわごと、男の脣にかぶりついた。長い、いくつものピアスが棘のようになった舌を出して、顎の辺りから鼻の先まで舐めあげる。美しい男の、薄青い色をした目が零れ落ちそうなほどに見開かれ、喉からは、声にならない悲鳴が上がった。ヒハハハと甲高い笑いをこぼして、ハンドレッドアイズはその反応を喜んだ。

「死にたくないなら止めて下さい。手元が狂ってしまいそうです」道端の汚物に向けるような目で部屋の中央を一瞥したティトラカワンは、今度はことさらゆっくりと、銃を構えた。

「手元が狂うゥ? アンタが撃ち抜くのは、最初から狙った場所だけだろー」

「だから止めろと言っています。その馬鹿げた青い髪に飽きて、今すぐ頭を赤く染めたいというのなら、止めはしませんが」

「っとに、神様ってーのは短気な生きものだよなー」ハンドレッドアイズが憎まれ口を叩いている間に、ティトラカワンの放った弾は、標的の、ちょうど喉仏にあたる位置を撃ち抜いた。先ほど眉間に空けた穴から床までの垂直線上、ど真ん中。寸分の狂いもない、まさに神がかった射撃だった。ハンドレッドアイズは引きつった笑い声を上げた。

「アーア、マジ凄すぎて笑いしか出ねぇわ。けど、俺だってやるときゃやるぜー」しゃがんだままの低い位置から、ハンドレッドアイズはわざと男の耳を掠めるように狙って、その背後、約二十五メートルの位置にある真ん中の的を撃った。くぐもった悲鳴と血しぶきの向こうで、標的の左顎の端が弾ける。

「ゲッ、また外れかよ」

「真面目にやれ」背後から聞こえた声に、ハンドレッドアイズが勢いよく振り返った。遅れてやって来たアルゴスとフィルも、イヤーバルブを装着しながら中に入ってくる。

「ボス、ちーす」

「ちーすじゃない」アルゴスは、真っ直ぐハンドレッドアイズのところまで来ると、その肩を横から思いっきり蹴飛ばした。小柄な体が、右手の壁に激突する。ハンドレッドアイズが取り落とした銃は、床を滑り、ちょうどアルゴスの足に当たって止まった。それを取り上げると、アルゴスは、銃口を向けるつもりだった真ん中の標的に、すでに不恰好な穴が開いているのを見つけて、狙いを右端の標的に変更した。即座に弾を放つ。標的の心臓の位置に穴が空いた。よろよろと壁際に体を起こしたハンドレッドアイズが、その結果を見るなり、「見たか」とでも言うように、ティトラカワンに向かって拳を突き出してみせる。

「二十五メートル先の標的の急所ぐらい、リンでも正確に撃ち抜きますよ」ティトラカワンはにべもない。何か言い返しかけたハンドレッドアイズの首根っこをつかまえて、アルゴスは、出入り口側の壁にくっついたカウチソファまで、彼を引き摺っていった。入れ替わりに、カメラを手にしたフィルが、縛られた男の前に進み出て、その場にしゃがみ込んだ。

「ジーグラの傍仕えらしい顔だな。鼻梁で半分に折ったら、ぴったり左右が重なりそうだ」俯いた男の顎を、懐から取り出した回転式拳銃の先で上げさせる。

「なぁ、教えてくれないか。たった一人の爺さんに大勢で仕えるっていうのは、いったい、どんな気分がするものなんだ?」最後まで言い終わらぬうちに、フィルは銃のグリップの底で、男の横っ面を殴りつけた。逆の手で、自らその様を撮影する。倒れ込んだ男の上体をすぐに引き起こして、今度は銃口で殴りつけた。照星に抉られた頬の血肉が、筋を描いて飛ぶ。

「おまえのところの変態殺人鬼……俺の恩人を惨たらしく殺しやがった、《ヴィルゴ》……聞いた話じゃあ、そいつがジーグラの寵愛を独占してるんだってな。腹が立ったりはしないのか? 愛人どうし、仲良くやれてんのか?」フィルは、質問から間髪入れずに、男の両太腿を、至近距離から一発ずつ撃った。反響する銃声は、唯一、拷問を受ける男の耳にのみ入って、フィルたちに聞こえたのは、彼の苦悶の叫び声だけだった。

「マオ、」呼ばれたティトラカワンは、左端の標的を使って一人で続けていた射撃練習を切り上げ、用意していたゴム製のものと、分厚い綿の手袋を二重に嵌めながら、血まみれの男の背後にまわった。猿ぐつわを緩め、舌を噛む隙を与えぬようにして、口の中に指を突っ込む。

「これを見ろ」フィルは、先ほど隠しに入れておいた二種類の紙きれを、男にも見えるように床に広げた。酔っ払いのように据わった目が、どうにかそちらの方へと向けられたのを確認してから、フィルは続ける。「全部、ヴィルゴの殺しの犠牲者だ。おまえから見て右側が、ジーグラ・ファミリーと繋がりがあったとされる者たち。視力0.01の人間でも、右側の方に名前が多いことくらい判別がつくだろう。つまり、ヴィルゴの殺しのほとんどは、内部粛清ってことだな。いったい、こいつら、何をやらかしたんだ?」

「…………し……、らな……」二本の指を銜えさせられているために、男の返事はくぐもって聞き取りづらかった。

「知らないってことはないだろう」フィルはまた発砲した。男の左足が踊る。

「……んと……に、知ら……」咳き込みながら、男はきれぎれの言葉を繋ぐ。「ヴィルゴは……あの男は、狂……ッ」

「やはり、男か……」フィルはほとんど、口の中で呟いた。ヴィルゴが男であること。そんなことは、とうの昔に知っていることだ。性別どころか、身長体重、おおよその性格、食の好み、週に何度ラス・ジーグラに抱かれているかということでさえ、情報は入ってきている。

 フィルはそもそも、気に入れば性別など気にせず付き合う性質だ。それなのにどうしてか、ヴィルゴに対しては、その存在を知ったときから、美しく若い女であることを期待していた。それは《乙女座》という通り名からの単純な連想でもあったし、その殺し方――被害者は男のみであり、一物を切り取って口に銜えさせることで自分の殺しの印とする――も、いかにも女の思考回路を経た行動である気がしたのだ。

 何より、本当に美しい女というものを、フィルは、見たことがない。女は、女であるというだけで、美しい完成品だからだ。面食いの自覚があるフィルだったが、そういう表層の好みとはまた別に、それは本心で、そう思っている。

 だから美しい男に比べれば、美しい女など、フィル・トップセルという男の生きる世界においては、ありきたりの存在なのだ。逆に言えば、傑出した美を見出しにくいということでもある。不毛の大地に咲けば、どんな花でも貴重で美しいが、薔薇の咲き乱れる庭園で、最も美しい一輪に出会うことは、至難の業だ。それを見出したいと思うことこそ、しんに面食いである証明だろう。

「おまえがジーグラの邸で寝起きを始めたのはいつからだ」フィルはなおも問うた。男はティトラカワンの指を含んだ脣の端から、血の混じったよだれを垂らし、眠りに落ちる寸前のような顔で、返事をしない。刃渡りの浅い果物ナイフを懐から取り出したフィルは、男の太腿にあるできたての銃創に、それを勢いよく突き立てた。血しぶきと悲鳴が、同時に上がる。

「寝ちまうくらい退屈のようだから、質問を少し変えよう」フィルはまったく平静の顔で相手の顔を覗き込んだ。「ヴィルゴは、いつからジーグラの元にいる?」

「………………ご、……ね…………」

「五年? それ以上前からいるはずなんだが」

「……五ね……ほどしか……ふつう、…………は……」

「そういえば、ジーグラの傍仕えは、美貌の絶頂を過ぎる前に暇を出されるのが慣わしだとか」ティトラカワンの言葉に、「それじゃあ、これ以上この質問をする意味はないな」と、フィルはあっさり踵を返した。アルゴスたちのいるカウチの方へ戻ってくる。ティトラカワンも、男の口から指を抜いて、後に続いた。二重の手袋は、裏返しに外して、部屋の隅に投げ捨てる。支えを失った男は、血だまりの中に崩れ落ちた。

「でも、ジーグラんとこって、うちと違ってバカでっかい組織だろ。それが全員美形で五年交代なわけ? すごくない? そんなんで組織成り立つの?」ハンドレッドアイズは、携帯ゲームに目を遣ったまま、隣に座ったアルゴスに訊いた。

「この鳥頭、前にも説明したろう」アルゴスは、ハンドレッドアイズの青い頭を、バスケットボールのように片手で掴んだ。「ジーグラんとこの構成員と、あいつの私邸に住んでる傍仕えは、その男や、ヴィルゴみたいなごく一部のエリートを除いて、完全に別物だ」言いながら、捕まえた頭を大きく左右に揺さぶる。

「おわわおいやめろってクソジジイ画面が見えん!」甲高い声で叫びながらも、ハンドレッドアイズは揺らされる頭と平行にゲーム機を上手く動かして、ゲームを続けている。アルゴスは呆れ顔で青い頭を叩いてから、手を離した。

「つーかよー、あれがエリートだって?」ハンドレッドアイズは、血まみれの男に一瞬だけ視線を遣って、せせら笑った。

「どんなにジーグラからの信用が篤い幹部構成員でも、美形じゃなけりゃ、ジーグラの本宅の所在地は知らないそうだからな」

「マジかよ。ひっでぇ顔面格差だなぁ。俺ラーテル入ってよかったぁ」

「ハンドレッドアイズ、後は頼む」フィルに促されると、さすがのハンドレッドアイズもゲーム機を放り出して立ち上がった。肩甲骨をうねうねと動かす、彼独自の準備運動をやりながら、「ヴィルゴ風に、やっちゃっていいんすよねぇ?」と、顔面のピアスのせいで恐ろしいだけの、満面の笑みを見せる。

「俺が後ろから撮影してるってことも忘れるなよ。おまえが写りこんだら台無しだ」アルゴスが、フィルの手からカメラを受け取りながら注意する。

「えー。そこはオヤジが気ィつけて撮ってくれよー」

 長椅子に座って、にぎやかな人殺しの物音を聞くともなしに聞きながら、フィルは、自分のスーツの胸もとに目を遣った。生地の色が暗いのでわかり辛いが、よく見れば、細かな血しぶきが散っている。ヴィルゴも、こんな風に血煙をかぶったのだろうか。そう考えると、スーツが汚れた腹立たしさより、『ヴィルゴに添った』という、ある種の快感の方が、フィルの脳内では上回った。

「これをジーグラに、どのようにして知らせるおつもりですか」壁に寄りかかることなく、長椅子の隣に真っ直ぐ立っているティトラカワンが、訊いた。どんなに耳に立つ音が聞こえても、ハンドレッドアイズの歪んだ笑い声が響いても、そちらの方へは、決して視線を遣らない。彼の眉間の皺は、部屋に入ったときから深まる一方だった。

「ここに来る前に、リンには、ラス・ジーグラの写真を百枚ほど集めておくように指示してある。それと、今アルゴスが撮ってる写真を使って、愉快なコラージュができると思わないか」

「……なるほど」興味なさげに呟いたティトラカワンとは対照的に、地獄耳のアルゴスが写真を撮りながら吹き出した。「それは是非とも早く拝見したいです」

「俺は自分が百回殺されてる写真を見た瞬間の、ジーグラの顔が見てぇよ」ハンドレッドアイズも笑いながら言って、死体に等しかった男の頭に、とどめの弾を撃ち込んだ。

「出来が良いのは新しい射撃の的にでもするか」

「笑っちまって撃てませんよーそんなの」返り血を適当に拭いながら、ハンドレッドアイズが戻ってくる。ティトラカワンはそれより早く、カウチから離れた。

「いいトレーニングになるだろう」フィルは立ち上がると、ハンドレッドアイズの肩に手を置いた。死体を顎で示す。「明日の朝、車でジーグラの家まで送ってやれ。土産を忘れないように持たせてな」

「りょーかい」語尾を上げて、ハンドレッドアイズは敬礼の真似事をしてみせる。

「これで、次はヴィルゴは出てくると……?」出入り口の扉をすでに開きかけているティトラカワンが、独り言のような低い声で呟いた。

「さあな。こうして行動をなぞってみたところで、相手の何が理解できるわけでもない」フィルはちゃんと聞き取って、そう、答えを返した。

「ではなぜ、このような茶番をなさるのです」ティトラカワンが振り返る。

「昔から、気になる奴のすることは、何だって真似たい性分なんだ」そう言いながら、フィルはまるで、照れをごまかす少年のように、隠しに手を突っ込んだ。

「理解しかねます」つっけんどんに言って、先に部屋を出て行ったティトラカワンだったが、その表情は先ほどまでより、緩んでいるように見えた。フィルという男が、簡単に理解できるような人間ならば、最初から部下になどなってはいないのだ。

「俺はちょっとわかるけどなぁ」ハンドレッドアイズは軽薄な声で彼のボスの意見に同調した。フィルは、紙巻煙草を取り出す。ほとんど同じタイミングで、ハンドレッドアイズがライターを取り出した。

 宵闇の色をしたフィルの瞳の中に、ぬるい火が揺らめいた。

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