12

 朦朧となって見上げる記憶の水面のその先に、消えない、白い脛が、撓んで佇んでいる。足首の細い、女の脚だ。水底の、烈しい水流に翻弄されるだけの死んだ体では、それを、見上げることしかできない。

 そんな、とうに見飽きた妄想から、自分の気を逸らすためだけに、ヴィルゴは、上ずった甘い声で泣いた。

「アァア……っ、……うぅっ、う、……ッふ、」

 一番奥まで腰を打ち付けてから、ゆっくりと全長を引き抜き、入口に先をしつこく擦りつけ、こねくり回してから、また奥まで犯す。それを、何度も何度も繰り返すのが、アスネスの、いつものやり方だった。自分の体に直接得られる快感のためではない。アスネスの先端で、何度も何度も体をこじ開けられるたびに、初めて男に体を開かれるかのように身を固くし、引き締める、ヴィルゴの反応を、楽しんでいるのだ。

 他人の恐怖を暴き、そこに分け入る、残虐な快楽。戦場を失った老兵がそれを得られる場は、今や、この寝台の上にしかない。アスネスという男の欲望を満たせる人間は、ヴィルゴしかいない。それを理解しているからこそ、ヴィルゴは、この絶望的な繰り返しを、何度でも受け入れる。届かない白い脛を、見つめ続ける。

 大きく開かされた太腿に、十数分前まできつく食い込んでいた縄の痕が、まだ、くっきりと残っている。

 去年か、一昨年のことだったろうか。今日のようにアスネスに抱かれている最中に、ヴィルゴは、自分が年を取ったのを知った。以前なら気にも留めなかったこういった痕が、十代の頃に比べれば、消えにくくなってきたことに気付いたのだ。

 それは、死の予感だった。

 大げさな表現だが、そのときも、ヴィルゴは大真面目にそう考えた。有象無象を殺しに殺して、殺すことが生活になっても、こんなちっぽけなことが、死を意識させる。死にかけた相手に思わぬ反撃をされたときにも、縛り上げられ鞭を受けているときにも、そんなことは感じない。まともな男がするはずのない格好で、内臓をめちゃくちゃに擦られている今このときにだって、それが死に繋がっているとは考えない。年をとればいつかは死ぬということ以外に、ヴィルゴに許された確実な死への道筋などないのだ。

 律動の頂点で、体の中にあった他人の重みが抜けた。低く呻いて、ヴィルゴは思考を中断する。躾けられた素早い動きで、自分の中から出てきたばかりの、汚れたペニスを口に含んで、啜った。

「バンシーが殺られたとなると、次に出るのは君だろう」

 アスネスは、ようやくその言葉を口にした。

 話をする気になったということは、サディスティックなセックスもそろそろ終了時刻だ。ヴィルゴは、深く吐き出してやりたいため息を、喉の辺りで散らした。それがひきがねになって、慣れて感じなくなっていた、喉の奥にからみつく生臭い味が甦ってくる。唾を飲み込んで、嘔吐きを引っ込めた。

「ええ。でも、愛するバンシーを殺されてボスも相当頭にきてるみたいだし、俺に仕事が回ってきたってことは、……ねぇ、」

「惨殺死体がまた一つ、か」

「だって、ボスったら、今までで一番派手に殺せとか言うんだもん。ごめんね、閣下にはまた、面倒を掛けてしまうけれど」

「毒蛇の敵は俺の敵だ。それを掃除してくれるというなら、多少の面倒は見るさ」アスネスは、含みのある視線を、ヴィルゴの美しい双眸と合わせた。べとつく口もとを指先で拭って、ヴィルゴは、アスネスの脚の間に身を起こした。

「あなたの敵は、毒蛇の敵、ですか」

「おまえはその言葉の意味を正しく理解しているだろう。なのに、なぜいつまでも実行しない。まだ時期が来ていないとでも抜かすつもりか」

「いえ……」

「それならさっさと塒に戻って終わらせてこい」

 ヴィルゴは、返事をせずに、アスネスを見つめた。飲み込みの悪い生徒に半ば呆れた教師のような顔で、アスネスは、ヴィルゴを見つめ返す。

「俺はきみに、そんなに難しいことを求めているか? 君の良く知る老人が一人死に、行き場をなくした美しい男は、私の元へとやって来る……そうして男は、やっと気が付くんだ。かつての恩人から受けた義理など、この世界では、これほどまでにちっぽけなことだったのか、とね」

 今更そんな説明をされなくとも、ヴィルゴは、アスネスの要求の全てを、心得ている。彼が、面倒な暗殺事件ばかり起こすヴィルゴを擁護してきた理由など、初めから、それ一つだ。

『力を持ち過ぎたジーグラを、消せ』

 アスネスが、ヴィルゴの体を縛り上げ、鞭打ち、貪るのは、そのついでに過ぎない。美しさが全ての尺度である、どこかの色道楽とは違う。

 だが、そのアスネスも、すでにかつての勇猛な兵士ではなくなっていた。年齢のせいだけではない。一介の傭兵から、王国陸軍の中将にまで成り上がった男だが、地位は彼を危険から遠ざけ、金は美食と麗しい男女に姿を変えて、屈強な戦士の肉体と精神を弛ませた。

 そうでなくては、ヴィルゴを抱え込もうなどという、危険な判断はしないはずだ。

 こんな禍を。

 ヴィルゴは、弛んで幾重にも横筋の寄ったアスネスの腹を、伏せた睫毛の下で盗み見た。萎縮した筋肉の上に脂肪を纏いつけた、醜い抜け殻だ。人生を賭して必死で掴んだ特権階級に骨抜きにされた、かつての猛者、その成れの果て。これならまだ、日々のトレーニングを欠かさないジーグラの方が、立派な体をしている。

「……でも、極東警察の中には、こないだのペロシの事故を、事故として片付けたがらない刑事もいるんでしょう……?」ヴィルゴは、甘えた仕草で、アスネスの胸に頬を寄せて、言った。後頸に、アスネスの手がやさしく添えられ、鬢の毛を撫ではじめた。

「いたとしても、そいつらに何ができる。あそこは軍の管理区域、軍警察の管轄区だ。何より、あの町が地図に載っていない理由を考える頭があれば、事件をほじくり返そうなんて気は、なくなるはずなんだがな……」

「そんな頭のある人間は、たぶん、警察に就職なんてしないんじゃない。もっと割の良い仕事に就くはずだよ」

「金持ちの情夫兼暗殺者、とかか?」アスネスが、胸もとのヴィルゴを覗き込んで、笑う。

「それが一番頭の悪い選択だね。俺は、まともにものを考えられない馬鹿だからさ」

「だったら余計に、失敗した選択を、ここらでやり直すべきじゃないのか。何も恐れることはない。これから先、おまえを守るのは、大蛇の腹だ。深い懐に潜り込めば、何であろうが追っては来られまいよ」

 アスネスの指先が、ヴィルゴの顎を上向かせる。そこにあるのは、もはや男でも女でもない、美貌だった。神話に出てくる美しい人間は、大抵の場合、国を傾け、争いの種になり、神に愛され、または嫉妬され、最後は星か花になる運命だ。その美しさゆえに、この世のものではなくなる。

 こんなものが自由に生きていれば、世界は、おかしくなる。

 アスネスは、国民を守るべき軍人という立場から、その点に関しては、ジーグラに礼を言いたいくらいだった。ジーグラがヴィルゴを独り占めして隠し続けてくれたことで、どれほどの善良な人間たちが、道を過たず、幸せな人生を送ることができたことか。

 ヴィルゴの顔に見入ったまま、アスネスは、言った。「全く、きみは親に感謝しないとな。きみ程度の能力を持つ人間なら腐るほどいるが、この悪魔みたいな美貌が、きみの存在を飛び抜けさせる」

「ねぇ……、嘘だろう。俺の顔になんて、興味ないくせに」

 ヴィルゴはアスネスの頸に両腕を回して抱きついた。まるで子猿が母猿から振り落とされまいと必死にしがみつくようにも思える、切実さで。実際、ヴィルゴの表情には、アスネスの目の届かぬ所で、微かな怯えのような、不安なものが覗いていた。

 たったひとつ、だったのだ。

 面長の陰気な顔も、脂ぎった部分とかさついた部分の極端な肌質も、立場の弱い人間をいたぶって悦べる性格も、ヴィルゴは、アスネスのほとんどの性質を、疎んでいる。ただひとつ、ヴィルゴの容姿に大した敬意を払わない点だけが、彼にとっての、アスネスの尊敬できる点だった。

 それをみすみす、自ら手放すとは。この男はもう駄目だ。一番大事な部分を、見誤った。人殺しを生業にしている《ヴィルゴ》の目の前で。

 ヴィルゴは、アスネスの頸に腕を回したまま、滑るように後ろをとり、そのまま太い頸を締め上げる。

「…………ッ!」アスネスはまともに声を上げることもできなかった。真っ赤に変色した耳の後ろに脣をくっつけて、ヴィルゴは笑う。「ねぇ……。アナルファックより気持ちいいだろ、俺の腕に抱かれるのって」

「…………っ、そ、……でも、ない……ぞ…………」アスネスは、吐息でそう言って、脣の端を上げてみせた。

「じゃあ、もっとよくしてあげる」ヴィルゴは、つい先刻まで彼を拘束していた手枷と足枷を、アスネスに装着する。閉じられぬようになった脚の付け根に視線を落として、ヴィルゴは、ひとつ笑った。

「俺なんかより、閣下の方がずっとお似合いですよ」悠々と寝台を降りて、ヴィルゴは、脱ぎ捨てたままの形を保っている自分の背広から、金細工のついた短刀を取り出した。

「何だ……、結局は、恨み、か……。かわいそうな奴だな、おまえは」アスネスは不敵な顔で、鞘を払ったヴィルゴを見上げる。

「なにか言った?」短刀を逆手に持ちかえると、ヴィルゴは、アスネスの左の頬を、躊躇なく刺した。刃はすぐに歯に当たって止まる。体を斜にして、すぐに抜いた。刃先から飛んだ血が、タイルの床に、弧を描く。

「おまえが、かわいそうだと……言ったんだ……」喉に流れ込んだ血にむせながらも、アスネスは、言葉を続けた。「俺を切り刻んでも……俺のペニスを切り落としても……おまえが、俺に何度も犯された事実は、消えんぞ、ヴィルゴ……。おまえ、は……忘れない……。ふつ……なら、次の朝に、忘れ……つまらん、手順も……些細な……睦言、すら、……えいえん、に…………」

「そうだよ、俺は忘れられない。そういう脳みそだ。ねぇ……。あなた、やっぱり知ってたんだね。知ってて、あんな抱き方してたんだ……」ヴィルゴはその優しげな声を、相手を慰めるために出したのではなかった。自分自身を、宥めようとしたのだ。そうでもしなければ、答えを聞く前に、目の前の男を殺してしまいそうだった。

「……おまえの方こそ、気付いてなかったのか……? 汚辱と苦痛に……耐える……アフロダイトの表情よ……り……、甘美な、ものなど……、この世には、存在しない。……かわいそうだが、苦しみ……のたうつ、おまえの姿は……かけがえがない」

「ほんっと、変態なんだから」ヴィルゴは上っ面で苦笑して、逆の頬を刺した。アスネスはその間も、ヴィルゴから視線を外さなかった。

「……、……そこに、いるだけで……、他人の慾を、根こそぎ引き摺り出す、おまえの……ほ……が……、俺より、深刻な、変態だ……」

「汚辱と苦痛って、ねぇ……。そんなもの、頭の天辺まで浸かり切って、それが当たり前になってるってのに、今更どうやって感じろっていうの……?」

「それなら、昔のおまえは、今より、もっと、魅力的だったのか……。一度、抱いてみたかった……」

「俺が不能になったのは十より前の話だよ。さすがのあなたでも、子供を抱く趣味はないだろう」

「残念ながら、おまえなら何でもありだ」

「怖いなぁ……。あなたがタイムマシンを手に入れる前に、これを潰しておかなきゃね」ヴィルゴは気軽な調子で、アスネスの陰茎の根元に、血まみれで切れ味の悪い刃を、ゆっくりと食い込ませた。血が噴き出す。

「…………ッ、……女、みたいな真似、しやがる……」

「犯された人間に男も女もないよ、閣下。この苦痛も、残念だけど、すぐに終わっちゃう……。ただ、俺だけがずっと、こいつに犯された記憶を抱えて、苦しみ、怒り狂い、のたうち回り続けるんだ」ヴィルゴはそう言って、切り取ったアスネスの一物を、床に叩きつけた。

「よく、……言う……、おまえだって、悦んだ……くせ、に……」

「閣下には想像力が欠けてるね。レイプされ続けるしかない人間が、レイプを憎んで、生きていられると思う?」

「そんなに嫌なら、さっさと死ねば、よかったんだ……」

「自死は人間の特権だ。犯されて悦ぶ人間以下のクズ以下に、そんなこと、できるわけがない」言い切ったヴィルゴを、アスネスは、急速に光を失いはじめた目で、ぎょろりと、見た。

「バカめ、覚えとけ……、犯された記憶に苦しむのは、人間だけだ。……おまえも、人間なら……人間らしく……苦しんで、死ぬまで、生き恥をさら、せ…………」

 ヴィルゴは、アスネスの首を大きく捻って、寝台から振り落とした。死んだばかりの体が、寝台の端に激突してから、タイルの床に転がる。うつぶせになった死体を見下ろす、ヴィルゴの無表情の底に、どす黒い炎の舌がちらついた。

 ヴィルゴは寝台を降りるなり、こと切れたアスネスの頭を蹴飛ばした。長い時間犯されていたせいで、腰から下に思ったほどの力が入れられない。そのことに、余計に腹が立った。無抵抗の頭を踏み、蹴りつけ、打ち据える。「クソ、もっと苦しめてやるんだった、クソ……っ!」

 死体の頸の筋が裂け、すっかりおかしな方向に顔が向いたところで、ヴィルゴはやっと、暴力の波から降りられるタイミングを見つけた。大きく息を吐き、目を閉じて、ゆっくりと、新しい空気を取り入れる。目を開けると、ヴィルゴは、床にへばりついたアスネスのペニスを拾って、彼の口に押し込んだ。床の端に踊るような格好で投げ出されている自分の背広から、カメラを取り出して、死体の顔と全体図を、二枚だけ撮った。

「さあ、大きな敵を始末してあげたよ……。あんたは怒るかな、それとも喜ぶ? フィル・トップセル……」

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