13

バカの心

 ヴィルゴが一人で受付に戻って来ると、片目の青い女だけが、まだそこにいた。昨晩、硝子窓の向こうの控え室を膨らましていた娼婦たちは、みな客がついたのか、それとももう終業時間なのか、一人残らずいなくなっている。

「何時?」ヴィルゴは、カードキーをカウンターに置いて、言った。

「朝の六時前」女はそれを引き取って答える。

「ふぅん……」

「ひとりで戻ってきたのね」彼女は、軽く頸を傾げて、大きなため息をついた。

「相変わらず、率直だね、きみ。面倒くさいことになった、って、顔に書いてある」ヴィルゴは、ほんの数ミリだけ、口角を持ち上げた。

「『おまえの百分の一でもヴィルゴが素直だったら』って、ジーグラ様、昔よく私にぼやいてらっしゃったものよ」

「『金のために整形してあなたに近づきました』って、ボスに面と向かって言えるような素直な人と比べられても、ねぇ……」ヴィルゴは、カードキーの隣に、小さな記録メディアを並べて置いて、カウンターの端に置かれた電話機の傍に用意された、正方形のメモ用紙を一枚取った。

「でも、素直に言ったおかげで、こんな立派な手切れ金を貰えたのよ。なのに、ほんと……、店に悪評が立ったらどうしてくれるのよ」

「立たないよ。俺が言うんだから、信憑性あるだろ?」ヴィルゴは、自虐的なジョークを口にして、メモ用紙を女に渡した。印刷物のように癖のない、粒の揃った文字が連なっている。「これ、今日中にここに届けて」

 ペロシ・トップセル社、フィル・トップセル宛。荷物の送り先を見て、彼女は眉を上げた。「あなた、まさか、ライバル企業に転職する気?」

「確かに、その中身は、職務経歴書の代わりになるかもしれないね」ヴィルゴはそう応じて、握っていたペンを机上に転がした。女は、ヴィルゴの顔を、じっと見上げる。青い方の瞳は、照明を吸って、紫色に光っていた。

「閣下を殺しても、あなたの立場が揺らぐだけなのに、なぜ」

「俺がどうなろうと知ったことじゃない。じゃ、頼んだよ」ヴィルゴはサングラスをかけて、彼女に背を向ける。

「普通は、他人がどうなろうと知ったことじゃないのよ」娼婦は、離れていく背中に、言った。

「他人がどうなるかには、多少の好奇心があるんだ」ヴィルゴは、扉の前にちょっと立ち止まってそう言い、手も振らずに出て行った。その扉は、昨晩、彼が入って来た方の扉ではなく、主に従業員の使う裏口だ。地下道を通って、別のビルの一室に繋がっている。

「相変わらず、おかしな人」娼婦は青い片目を光らせて、しばらくヴィルゴが消えた扉を眺めていたが、仕事を頼まれたことを思い出して、受話器を取り上げた。

     ◆

「アスネスが、ヴィルゴに、殺された……?」

 フィルの声が、地下の射撃練習場に響く。その知らせを伝えたばかりのティトラカワンは、フィルの復唱に頷いた。

 一度聞いた報告を、繰り返して声に出したというのは、伝えられた情報を一度で飲み込みきれず、咀嚼する時間をかけた、ということだ。フィルは、自分が動揺していることを、自覚した。

「先ほど、バイク便で、記録メディアだけが届けられました。プリントアウトしたものがこれです、」表情は普段と変わらなかったが、よっぽど急いで来たのだろう。写真を差し出すティトラカワンの手に、手袋がなかった。傍らの台の上に、鈍い銀色に光る愛用の回転式拳銃を置いて、フィルは、その二枚の写真を受け取る。

 一枚目は、切断された一物を銜えさせられた、アスネスの顔を大写しにしたもの。その殺し方については、もはやお馴染みと言えたが、フィルが目を惹かれたのは、アスネスの顔に、烈しい暴行を受けた痕が残っている点だった。これが誰の死体であるか、もし聞いていなかったなら、一見して、アスネスだとは判らなかったかもしれない。死体の鼻は折れ曲がり、片目は半ば飛び出て、両頬にある刺創からは、大量の血が流れ出した痕がある。生きているうちに拷問を受けたのだろう。

 もう一枚の写真は、全身が収まるように撮られたもので、頸を無理な方向に曲げたアスネスは、全裸で、革の拘束具を装着していた。ヴィルゴの殺しとしては珍しいことに、銃創は一つもない。行き過ぎたSMプレイが原因で死亡したのだと言われたら、そのまま納得してしまいそうな遺体だった。

 写真の端には、撮影日時が記録されている。これを信用するなら、どちらも、今朝の五時四六分に撮られたものだ。フィルは腕時計を確認した。ほんの、三時間ほど前だ。ジーグラの私邸のある街から、この陸の孤島まで、軍用道路を使わなければ、車で普通に飛ばしても、約三時間ほどの距離がある。死体の目玉がまだきれいな色をしていることから考えれば、アスネスを殺して、写真を撮り、バイク便を手配する、という一連の作業は、流れるように手早く行われたはずである。

「これは間違いなく、ヴィルゴの仕業なんだな?」フィルは、イヤーバルブを外しながら、訊いた。

「昨晩、ヴィルゴが、毒蛇派御用達の会員制バーに入っていったことは、確認済みです。そしてアスネスも、同じ時間帯にその店にいた……。あの店の地下には秘密娼館があり、アスネスは、ヴィルゴとの逢瀬にはいつも、その一室を使用していたようです」

 フィルは、もう一度、写真に目を注いだ。その目じりに、微かな笑い皺が寄る。「まさか本当に、変態プレイの行き過ぎで殺しちまったわけじゃないだろうな」

「アスネスの性癖は、被虐ではなく、嗜虐趣味だったはずです。そんなことより、重要なのは、これをわざわざヴィルゴが、あなたに送ってきたという点ではありませんか?」

「ああ、だがそれにしても……、この哀れなじいさんは、ただの変態じゃない。王国軍内の毒蛇派の重鎮、アスネス中将だぞ。頭に脳みそ入れ忘れてるんじゃないのか、ヴィルゴ……」フィルは、低く唸るようにその名を呼ぶ。「アスネスが、これまでどれほど毒蛇の為に尽力してきたと思ってやがる。毒蛇悲願の娼館営業法だって、奴の根回しがなけりゃあ成立しなかった。ヴィルゴの殺しのケツを拭いてきたのも、他でもない、アスネスだろうに……」

「だから言ったでしょう、ろくな人間ではないと」ティトラカワンは、得意げな語気で、そう吐き捨てた。フィルは苦笑する。「人間離れした肉体を持つと、精神もそうなるのかもな」

 人が来たことを知らせるブザーの音が、落ち着きかけた地下の空気を、再び震わせる。ティトラカワンが後ろを向いて、扉の脇の監視モニターを覗きこんだ。顔面じゅうに、ヒルのように黒いピアスをくっつけた青い毛の男が映っている。ティトラカワンは、「ハンドレッドアイズです」とフィルに告げ、彼が頷くのを待ってから、鍵を開けた。

 ハンドレッドアイズは外から扉を開けて、そのグロテスクな顔を覗かせるなり、「来てくれ、リンがまずい!」と叫んだ。

「まずいというのは、どういう状況だ」フィルは、すでに大方何が起こったのかは察していたが、それは顔に出さずにそう返した。

「とにかく来てくれよ!」ハンドレッドアイズは、脂汗の浮いた青い顔で叫ぶ。

 フィルは、ティトラカワンと一瞬、目を見交わしてから、ハンドレッドアイズの後に続いた。三人連れ立って、エレベーターに乗り込む。箱が上昇をはじめてから、事の詳細をティトラカワンが幾度か問いただしたが、ハンドレッドアイズは無言のままだった。苛苛した様子で、下脣の下から牙のように突き出たピアスをいじくっているばかりだ。すぐに、現在、リンが使っている個室のある階に、エレベーターは到着した。ハンドレッドアイズは無言のまま箱を飛び出して、フロアの端の方にあるリンの部屋へと駆けていく。

 ハンドレッドアイズが開けた扉の中を、後を追ってきた二人が覗き込む。フィルは僅かに目を強ばらせ、ティトラカワンは、いつも翳っている眉頭の上の筋肉を、さらに緊張させた。ハンドレッドアイズを押し退けるようにして、フィルは、埃くさい部屋の中に足を踏み入れる。青い毛の同僚を侮蔑的に睨みつけながら、ティトラカワンもそのすぐ後に続いた。

 手洗いと浴室以外は、主寝室しかない、小さな部屋だ。正面の窓には、蜘蛛の巣状の大きな皹が入っていて、全体が白く濁って見えた。その下、一人用の寝台に、半裸の少年が、うつぶせになって倒れていた。顔を突っ伏した枕を、両手で掻き毟るような格好だった。枕は爪で引き裂かれ、飛び出した羽毛が、辺りに散乱している。部屋の中が妙に埃くさいのも、このせいだろう。枕の破れ目の周辺は、血の染みで斑になっていた。

 フィルは少年の頸すじに手を当てた。頼りない、細い頸の中で、血液の流れるリズムが、指先に感じられた。最悪の事態ではないことを知って、少し息を吐く。フィルは少年を仰向けにしながら言った。「ハンドレッドアイズ。そろそろこの状況を説明しろ」

 リンのドレスシャツの釦は全てが弾け飛び、ひとかたまりに床に落ちているトラウザーズと下着は、卑猥に汚れていた。かなり強く殴られたのだろう、左頬は腫れ上がり、まだ止まりきっていない鼻血が、その上に広がっている。指先も、親指を除いたほとんどの指が、血に塗れていた。枕の破れ目の赤い染みの中に、爪のかけらが一つ引っかかっているのが、フィルの目に入る。

 弁解の余地なし。そんな現場だったが、ハンドレッドアイズは、引き攣った半笑いで頸を振りながら、寝台の方へと近づいてきた。「いやいやいやいや、マジ、これマジで違うから、マジ同意の上だったんですって!」

「あなた、同意の意味、知ってます?」ティトラカワンの言葉に、「テメェは黙ってろ!」と吼えて、ハンドレッドアイズはすぐにフィルに向き直る。

「ほんとにちょっと、遊ぼうとしてただけなんすよ。なのにこいつ、急に暴れはじめて、手ぇつけらんなくなったもんだから、殴って気絶させただけで、だってほらこいつ、暴れだすとマジ危ないじゃないすか、ねっ、ある意味正当防衛っすよ、」ハンドレッドアイズは、両手を広げて、それだけでは足りないというように目まで大きく見開いて、そう主張した。小さな角のようなピアスが縦に三つねじ込まれた額が、汗でどろどろに濡れて、惨めに前髪を貼りつかせている。

 ティトラカワンは、薄手のゴム手袋を嵌めてから、リンの傍へ寄った。眉間に何本も皺を寄せて、血のにおいを堪えている。五年前に風で飛ばされ木の枝に引っかかったレジャーシートのように、リンの細い体に纏いついている破れたシャツを、手早く脱がせた。全裸にした少年の体を、すみずみまで、視触で検める。

「とりあえず、緊急を要する怪我はないようです」ティトラカワンは、フィルの方に顔を振り向けて、言った。ゴム手袋を脱ぎ捨てると、新しく、絹の手袋に嵌めかえる。

「だから、ちょっと殴っただけだっつってんだろ!」ハンドレッドアイズはまた、前方にいるティトラカワンに、荒い言葉で苛立ちをぶつけてから、横を向きなおして、上目に、彼のボスを窺った。「だいたい、誘ってきたのもこいつの方なんすよ。なのにこんな、俺がまるで拳で脅してレイプしたみてぇな扱い、マジないですって。俺、そこまでバカじゃないっすよ、マジ無実なんすよぉ!」

「俺が言い忘れてたのかもしれんが、こいつには、セックス・アディクトの気がある。病気なんだ。今後は誘われても乗るな」フィルは言いながら、ベッドの頭側にある、小さな机の方へ移動した。そこにひっくり返っている電話機で、医者に連絡をとろうとしたのだが、受話器を耳に当てても何の音もしない。壊れているようだ。フィルは携帯電話を取り出して、馴染みの医者に連絡をとった。

「あ、あの……、」フィルが通話を終えたタイミングで、ハンドレッドアイズが口を開く。フィルはそちらに、感情の見えない、しかし威圧感のある目を向けた。「この件はもういい。下がれ」

「あ、はい、……その、お騒がせして、すんませんでした」

 ハンドレッドアイズが退出し、部屋には、気を失ったままのリンと、ティトラカワン、そして、フィルが残る。

「まったく……、バカが二人揃うと、ろくなことにならない」ティトラカワンは吐き捨てながら、リンの体に、浴室から持ってきたバスタオルを乱暴に被せた。

「同感だ」フィルは、全体に大きく皹の入った窓に目をやった。敷地の外からは見えない、坪庭に面した窓だった。「すぐに硝子を入れ替えるのは無理だろうが、応急手当をしておかないと、ヴィルゴなら、平気でここから入ってきちまいそうだな」

 その言葉に、ティトラカワンも顔を上げ、細めた目で窓を見つめる。

「バンシーがあなたから返り討ちに遭って、自分がその代役を掠め取る。そのシナリオのためだけに、ヴィルゴは、あんなバカげた変装をしてまで、敵の懐に乗り込んできたのでしょうか」

「ああ……しかも、今までどんなに探っても出てこなかったヴィルゴ自身の情報を、あいつは自ら、べらべらと喋った。本当に、どういうつもりなんだか……」

 十五でジーグラの愛人となり、それから九年後、暗殺者も兼ねるようになった、《ヴィルゴ》――フィルは目を薄くしたままで、あの日、懐に潜り込んできた暗殺者のことを、思い返した。追い詰められていることにまるで気づいていないかのような、のびやかな肉体。すべてを運命の前に投げ出した、赤ん坊の瞳。あんな調子で、あいつは何十人も人を殺してきたのか。次に、俺を、殺すのか。殺したいのだろうか、本当に。仲間を殺してまで、俺を殺す役を手に入れたのはなぜなのだろう。

 殺すことへの執着も、喜びも、あの夜のヴィルゴからは、欠片も感じられなかったが……。

 医者が到着したので、リンは任せて、フィルとティトラカワンは、ひとつ下の階にあるオフィスへ戻る。二人は、狭い階段を、縦に並んで降りた。

「アスネスを殺して、ヴィルゴに、得があると思うか……?」フィルの声が、ひそやかに空間に広がる。ティトラカワンは、前を行くフィルの頸すじに、視線を当てた。

「ヴィルゴが、ジーグラからあなたへ鞍替えしようと考えているなら、アスネス暗殺は大きな手土産になる。得があります」

「だが、あいつが俺のところへやって来たのは、フィル・トップセル暗殺の任を、バンシーから奪うためだ。わざわざそんな面倒な手順を踏んだってことは、ジーグラから離れるつもりがないってことじゃないか?」

「ええ……。では、アスネス暗殺、それそのものが、ヴィルゴにとって得だった、ってことでしょうかね」

「殺して得られる利益のためではなく、殺すこと自体が目的、……か」

「アスネスの後ろ盾あってこその大量殺人だったのですから、殺し好きのヴィルゴにとって、アスネスの死は損にしかならない。組織全体のことを考えても、毒蛇派の重鎮を失うことは、明らかな損失です。何か個人的な恨みでも持っていたのか、それとも衝動的な殺人の欲求に負けたのか……、何にせよ、奴がバカだってことは確かなようですね」

 ティトラカワンの辛辣な意見に、フィルは息をこぼした。「ヴィルゴがもし、ジーグラより俺を選べば、おまえの大好きなバカが三人になるな」

 ぴくりと眉を動かして、ティトラカワンは目を遠くする。「私の部下にも一人、手の付けられないバカがいるので、もうバカ枠は満杯ですよ。勘弁してください」

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