20

神様、

「こんなもの持ってるってことは、今も副業で売ってんの?」未開封の軟膏のチューブを手の中でもてあそびながら、ロジェは、近づいてくるフィルを、眇めた目で見遣った。

「もう少し若い頃までは、そんな物好きがいないこともなかったが……最近はさっぱりだな」フィルは脣の端で笑って、灰皿をテーブルに置き、煙草も、灰皿のふちに乗せた。背広を脱ぎながら、浴室の手前の、アンティークらしい、大きなワードローブの方へ戻る。古そうな扉が軋む音をたてて開くと、その陰に隠れて、また、フィルの姿が見えなくなった。

「……ねぇ。まさか、男娼って、……あんたもしかして、《毒蛇》の娼館で、働いてたの……?」

「あの銃は退職金の一部だ」扉が閉じられ、再び現れたフィルの上半身からは、ネクタイと、ウエストコートもなくなって、ごく細い銀鼠ストライプの、白いシャツ一枚になっていた。

 フィルはそれ以上、過去の話を続ける気はないらしい。シャツの釦を三つまで開けた楽な格好で、ロジェの隣に落ち着いてからは、黙って煙を楽しんでいる。部屋のどこかにある時計の秒針が、少しずつ、木槌で空間を横にずらそうとしているような固い音で、鳴り続けていた。ロジェは横目で、フィルを睨みつける。その気配に気づいたのか、フィルは口から煙草を取って、ロジェの顔を、じっと見下ろした。

「ちょっとは、顔色がマシになってきたみたいだな」煙草を持っていない方の手を、ロジェの頬に伸ばす。

「初心な処女みたいでかわいらしかったろ? そういうの、楽しんでよ」フィルの指に、頬を擦りつけ、ロジェは明るい声を出した。

「乗り気ならともかく、ガチガチに震えてる処女と寝るのの、何が楽しいんだ」

「そう……、あんたはそういうタイプかもな。じゃあ、残念だけど、相性は最悪だ……」

「おまえ、まさかだが、誰と寝てもあんな風になるのか?」

「いや……、うん……、でも、指であそこまでおかしくなることは、……あんまり、……」言葉を濁して、うんざりだ、というように、ロジェは頸を振り、フィルの手を払った。構わずに、フィルは「ペニスだと、いつもああなる?」と質問を続ける。ロジェは俯いたまま答えない。

 右手の煙草を口に運んで、フィルは、ロジェに目を当てたまま、黙っていた。ロジェも黙ったまま、自分のグラスを口に運ぶ。彼がそうやって何度かに分けて、すっかりグラスの水を飲み干してしまうまで、フィルの視線は逸らされなかった。ちらりと横目でそのことを確認して、ロジェは、ため息をひとつ吐く。

「いつも。毎回だよ」掠れた声が、投げやりな言い方に拍車をかけていた。「押し当てられてから、奥に入ってくるまでの間だけだけど、めまいがして、頭痛くなって、吐きそうになる」

「その後は?」

「後? ……まぁ、当たり前に中で動かれる分には別に平気。っていうか、最高だね」ロジェはそこまで言って、やっと、仏頂面を少し緩めた。その顔を見て、フィルも、煙を散らす。「変わった恐怖症だな。初めて聞く」

「慣れないんだよ、その瞬間だけ。どうしても。いつまで経っても」

「記憶力が強いんだな、きっと。余計なことを、何でも覚えているんじゃないか?」

 ロジェは愕いて、目を見開いた。「……あんた以外にそのことに気付いたの、アスネスだけだよ。あの人は途中で止めたりしなかったけどね。それどころか、死ぬほどじらしたり、何べんも入れ直したりして、俺をもうぐっちゃぐちゃに虐めたよ」

「それでぐっちゃぐちゃに殺したわけだ」

「時間なかったから、そんなにぐっちゃぐちゃにはできなかったけど」ロジェは眉山をちょっと上げて、皮肉っぽい顔で笑う。「ねぇ……、だから、大したことじゃないんだからさ、続き、しよう」

「それはつまり、俺におまえをレイプしろってことか?」フィルの言葉に、ロジェは眉間を思いっきり狭めた。「どうして。誘ってるのは俺だよ」

「脂汗たらして呼吸浅くして、腹を空かせた虎の檻に投げ込まれたってな具合に震えてた奴が、誘ってる?」

「そうだよ。もう平気だって、」抱きつこうとしてきたロジェの手首を掴まえ、フィルは、言った。「俺には、とてもそうとは思えない。思えなけりゃ、俺にとってはレイプだ。そうだろう?」

「めちゃくちゃだよ、あんたの言ってること」

「おまえがそれを言うのか」フィルは鼻先で笑って、短くなった煙草を、灰皿の底に押し付けて消した。「誘うっていうんなら、もっと、ちゃんと誘え。それができないなら、高くつくからな」

 ロジェは、手首を回転させて、フィルの手を握りなおした。立ち上がり、寝台の方へ引っ張ろうとする。その仕草は、男をベッドに誘うというより、何か見せたいものがあって、親の手を引っ張る幼児のような、色気のないものだった。

「おまえ、さっき、恐くて震えてただけじゃないだろう」まだ、ソファに座っているフィルは、強い力で、ロジェの手を自分の方へ引いた。よろけたロジェの腰を、両腕で抱き寄せる。「それだけなら、自分を犯した奴を、片っ端から殺したりしない。そんな元気は残ってないはずだ」

 フィルの上目に射られて、ロジェは、唾を飲みこむこともできなかった。腹の底が熱い。フィルに、胴をきつく、抱きしめられているせいだろうか。自分を見ている宵闇色の瞳が、澄んでいると感じるのは、なぜだろう。

「俺を殺したいのを、堪えてたんだろう?」

 フィルはそう言うと、ロジェを抱きしめていた両腕から、するりと力を抜いて、ソファの脇に置かれた、間接照明の灯りを消した。深まった闇の中で、呆然と立ち尽くしているロジェの腰を抱きなおす。早足にベッドへ連れていくと、物のように、シーツの上に突き倒した。ナイトテーブルのランプを消し、テラス側の縦型ブラインドの羽根も閉じる。部屋は、完全な闇の底に沈んだ。

「な、に……、……なんで、急に、……こんな暗く、しなくても……」ロジェは戸惑った声を出して、闇を白い腕で掻き混ぜた。しかし、何にも当たらない。

「おまえのためじゃない、俺のためだ」声は、すぐ上から聞こえた。マットレスの沈む感覚と、微かな軋み。近づく煙草のにおい。ロジェは、見えないフィルの顔を、見上げた。

「この世で一番やりたくないことを、おまえのためにやってやる」

 言葉と同時に、ロジェの襟もとに、手がかかった。

「……ッ、待っ、……フィル……ッ、」

 衣服を全て剥ぎ取られ、ロジェは全裸で、両手を頭の上に押さえつけられた。覆いかぶさってくる重い体を挟み込む形に、脚を開かされる。拭ったばかりの額にはまた、粘っこい汗が浮かびはじめていた。温かなてのひらと脣が、ロジェの素肌を這い回り、刺激する。ジーグラを殺したことで昂奮しやすくなっているはずのロジェのペニスは、しかし、直接手や膝で愛撫されても、縮こまったまま、ほんの少しの反応も見せなかった。

 潤滑剤を大量に垂らされた、その中心に、男の指が這い寄ってきて、あっという間に内側に潜り込んでくる。慣れ親しんだその、あまりにもおぞましい感触に、ロジェは今度こそ胃の中のものが逆流してきそうな危機を察して、喉だけでなく、全身の穴という穴を反射的に締めていた。

「閉じるな。全部開け。体じゅう、全部、脚も、口も、尻の穴もだ」

 ロジェはその言葉に歯を食いしばり、脂汗を垂らしながら、どうにか頷いたつもりだった。しかし体は強ばったまま、なかなか緩まない。

「聞こえないのか? ほら、開け、」

「……っ、吐っ、きそ、なんだ……!」半ば歯を閉じたままで反論するが、フィルはそれを意にも介さず、ロジェの顎を捕まえて、指を四本、口の中に突っ込んできた。

「開けと言ったのは俺だ。そのせいでおまえが粗相をしたって怒りはしない。だから、ゲロ吐いてでも、俺を受け入れろ」そう言って、指の間に挟んで外に引っ張り出したロジェの舌を、自分の口に銜える。限界まで見開かれたロジェの目のふちに、涙がしみだしてきて、珠を太らせた。

「……んッ、……ぅふ、ゥ、」烈しい舌づかいに、飲み込む暇のなかった涎が溢れて、顎を、頬を、べたべたにする。ロジェは頭を左右に振って、執拗な脣から逃れようとするが、額を押さえつけられて、それは叶わなかった。器用な舌に、口の中のあらゆる場所を愛撫される。ロジェはどうにか、幽かな快感を得てはいたが、それよりも、下腹から内側に押し入られることへの嫌悪と、恐怖と、怒りの方が勝っていた。

「…………ッ、……ヒッ、ぃ……ッ!」分厚い体に開かされたふとももをバタつかせ、どうにか動く肩から腰にかけてを捩って、ロジェは、フィルの下から抜け出そうと試みる。しかしその間にも、内側の肉をこじ開ける指は、数を増やし、存在感を増していった。ロジェの頬の皮膚はそそけ立ち、血の気が引いて、死体のような冷たい色に変わっているのに、全身が、汗でねっとりと濡れている。

「おい、ヒーヒー変な息してないで、言いたいことがあるなら俺に言え」

 ロジェの口はパクパク動くだけで、声らしい声は出てこない。返事の代わりに涙が散り、興奮のためか、暴れてどこかにぶつけたのか、鼻血まで垂れてきて、濡れている顔をさらに汚した。痙攣している閉じかけた瞼の下で、目玉が今にもひっくり返りそうに、白黒している。

「ロジェ、」フィルは、汗と涙と血でぬるぬるする頬を、手の甲で、軽く叩いた。そのくらいの刺激では正気が戻らない。

「ロジェ!」大声で呼ぶと、ロジェはそれでようやくまともに目を開いた。相手の存在に今気づいたとでもいうような顔で、フィルを見上げる。暗さに慣れたロジェの目に映ったのは、まさに今、自分を犯さんとしている男の姿だ。喉の下に唸るような嗚咽を押し込めて、この世から逃げるように、彼は固く目を瞑った。

「目を開けろ、ロジェ」

 自分を抱く男の声だ。命令だ。その声に従おうと、従わなければと、ロジェは思った。そのためには、瞼を持ち上げなくてはならない。それはわかる。だが、目を開こうとすると、恐怖が、確かな手ごたえとなって襲ってきた。ロジェの全身に、頭から足の先までを絞られるような、耐え難い痛みが走ったのだ。

「…………っぐ……ッ」ロジェは歯を食いしばる。頭が乗っている枕の両端を、破れそうなほど強く握りしめる。唸り声をあげて痛みに抗い、必死の思いで、彼は目を見開いた。

「ロジェ……」鼻が触れそうな位置に、フィルの顔が迫っている。尻を犯している彼の指が、ぎりぎりまで引き抜かれる。ロジェの腹筋は緩みかけたが、すぐにまた、ゆっくりと沈み込んでくる感触に、歯を食いしばる。

「うぅ……ッ、…………っく、……!」疲れた粘膜にねじ込まれる、恐怖の更新。ロジェは顔をくしゃくしゃに歪め、フィルの分厚い胸を、押し戻すように拳で叩いた。一度、二度、三度。びくともしない。フィルの目が、じろりと、ロジェを睨み上げた。

「どういうつもりだ。それがおまえの誘い方か?」フィルは言いながら、付け根まで押し込んだ三本の指で、ロジェの腹の中を探る。「言いたいことがあるなら、ちゃんと言葉にしろ」

 喉が震え、変な音が鳴ったが早いか、ロジェは、烈しく咳き込みはじめた。逆流した鼻血が、口からも散る。フィルは構わずに、抜き差しを繰り返した。

「…………ぐ……ッ、…………ヒッ、……っう、ふッ、うぅ、……っ!」胸でしゃくり上げながら、ロジェは、今度は両手で、フィルの頸もとや胸を、下に押しやろうともがく。

「ロジェ、」フィルは低く叫ぶように、その名を呼んだ。暴れる体を、自分の体全体で押さえつけるようにのしかかる。「おまえは今、何をしようとしてる。その手は何だ。つらいか? 俺が憎いか? 殺したいか? それはなぜだ。全部、口に出して、言え……!」

「い、……っあ! アァ! ああああ……ッ!」ロジェは、掠れた喉を開けて叫んだ。そこに絡みついた言葉を、臓腑に落としこもうとするように。フィルの指はますます烈しくロジェを責める。抜けては、狙いを定めて、また突き入れる、その動きを、何度も何度も、気が狂うほど繰り返した。フィルの指が体内に押し入ってくる、そのたびに、ロジェはのたうち、あえぎ、叫んで、言葉を殺し、この男を殺してやりたいという、その強烈な欲求もまた、必死に殺し続けた。

「言わないなら……、」

「…………ア、……!」指の入っている入り口に、外からさらに擦りつけられたものの正体を、ロジェが、わからぬはずもなかった。全身の毛という毛がざわめいて立ち上がる。内臓が全部ひっくり返って、口から出てきそうだった。

 ロジェは、頭をぐらぐらさせながら、重たいフィルの胸に、立てた爪を食いこませた。正常に頭が働いている状態だったら、決して、そんな無意味な抵抗はしなかっただろう。フィルの指が、腹の中から勢いよく抜ける。入れ替わりに、指ではない、重たい切先が、入り口を押し開こうと頭を擦りつけてくる。

 そのとき、部屋を引き裂くように、サイレンが響いた。

 それは全く言葉になっていない、ロジェの、叫びだった。鼓膜を、振り上げた錐で一気に突き通すような、金切り声。自分の真下にある音源を見下ろして、フィルは、体の動きを止めた。ロジェの胸の辺りが、ひくん、ひくん、と痙攣しているのを、フィルは自分の肌で、直接、感じた。

「や……、め、……」よれて、擦り切れそうな声が、苦痛に撓んだロジェの脣からこぼされる。「やめて…………や、……うぅ、……い……っや、……いや、だ…………」

「ああ」

 優しい声がした。

 その、次の瞬間。ロジェは自分の体が、宙に浮かび上がったように、錯覚した。

 慌てて目を開く。自分の体は、寝台の上にあった。ただ、今の今までのしかかってきていたはずのフィルが、もう、遠かった。高い位置からこちらを見下ろして、彼は言った。

「嫌なら、しない」

 ロジェは、瞬きをすることもできず、フィルを見上げた。二つの目で、自分から体を引いた男の姿を、ただ、見つめていた。

 フィルは、ナイトテーブル側の床に足を下ろし、体を捻って、ランプを点けた。その大きな背中にちょうどよく遮られた灯りは、ロジェの目をとろりとふやかす。シーツに散った血の色が見えて、愕いた。それが自分の鼻血だと気づいたロジェは、慌てて、ブラインド側に向かって体を横にした。顔を左手で覆う。急激に襲ってきた情けなさが、彼の耳の先を赤く染めた。

「…………うそだ、……こんな…………」ロジェの震える喉が、意味のない言葉を、空間に押し出す。「こんな、俺…………、あぁもう、……殺してくれ……!」

「駄目だ」フィルは、言った。「何を怒る。おまえが嫌だと言ったから、やめた。それだけだ」

「どうして……!」

「嫌だと言ったのはおまえだろう。俺は、嫌がってる奴を、無理に抱いたりはしない」

「………………ああ…………」湿った声が、顔を覆った彼自身のてのひらを濡らす。「あんた、……くそ、……みじめだ、……みじめだ…………」

 ロジェは、初めてフィル・トップセルという人間の存在を知ったときから、自分がこの男に無意識に期待していたものの正体を、それをあっけなく与えられた今になって、ようやく、理解した。

 ロジェは、怒っていた。

 自分という生きものに対して、彼はずっと、幼い頃からずっと、憤っていた。なんで。どうして。本当はいつも、どうしようもない、怒りまみれの問いを、何かわからぬ大きな存在に対して、ぶつけ続けていた。男たちに奪われ、奉仕し、時には自分から誘いながら、それでも、いつも、いつも、腹を立てていた。

 どうして。

 気が狂いそうな怒り。

 なんで。

 答えの返ってこない問い。

 怒りが頂点に達するとき――勃起したペニスに貫かれる瞬間、ロジェは、熱い怒りで、男たちを包み、呪っていた。

 おまえを、必ず近いうちに殺してやる。

 その、大して魅力的でもない楽しみ一つで、どうにか、怒りを抑え込んでいた。

 そんな日々の中で、ロジェは、夢を見たのだ。ほとんど、意識の領域に顔を出すこともなかった、本当の夢だ。言葉にすれば、笑うときの鼻息で飛んでいきそうなくらい、簡単で、手遅れで、陳腐なこと。

 助けてほしかった。

 犯されることと、生きることが、同じ意味だった毎日から、あの子供を、誰かに救い出してほしかった。「嫌だ」と言うことさえ許されない。言ったところで、相手にもされない。誰にも言葉が通じない。人間扱いされない。自分の体の形が、他人の楽しみのために変形し、機能が磨耗していく。その恐怖で、一人の夜にさえ眠ることができない。この先にまだ、延々と続くはずの自分の未来が、おぞましい。衆人環視の拷問部屋で、卑猥な玉座に裸で座らされる、将来の自分の姿。それ以外の未来なんて、ほんの僅かも想像できない、その切羽詰った絶望。

 そのことを、フィルなら、受け止めてくれるんじゃないか。せめて、ぶつけても、受け流してくれるんじゃないか。そんな夢を、見たのだ。実際に会って、言葉を交わして、その夢は、ますます膨らんでいった。

 勝手な期待だ。そうして、その期待のせいで、本当なら我慢できたはずのセックスひとつ、耐えられなかった。弱みを知られていたアスネスには、何度も何度も、繰り返し、意地の悪い抱き方をされて、声が嗄れるまで泣き叫んできたけれども、それでも一度だって、「嫌だ」とも「やめて」とも言わなかったし、逃げようと暴れたこともない。それなのに、フィルには、いきなり、それをしてしまった。

 これ以上、みじめなことがあるだろうか。

「みじめなのはこっちだ」フィルはそう言って、少し面倒くさそうに、ロジェの方を振り返った。「最悪の、砂肝みたいな気持ちだよ、俺は今」

 ロジェはその言葉に、顔を覆っていた手を外して、フィルを振り仰いだ。目の中に居残っていた涙を瞬きで外に押し出すと、淡く光る白い頬に、ほろほろと雫が転がり落ちた。ロジェは上体を起こして、フィルの目を覗き込んだ。そこに、ロジェへの侮蔑や、嘲りのようなものは、見えなかった。ただ、微かに、ほんのうっすらとだけ、得意げな表情をしているように見えた。自己完結の満足が、思わず表に滲んできたというような、嫌味のない、こんな立派な大人の男がすると、かわいらしくさえ見える表情だった。

「砂肝みたいな気持ちって、俺には、よくわからないけどさ……」ロジェは、多少無理をして、そこで笑みをつくった。

 よく見ればフィルのはだけた胸もとは、まだらに赤くなっていて、いくつかの引っ掻き傷には、血が滲んでいるものもある。自分の指先を見ると、爪の間が赤黒くなっている指が、何本もあった。その指でフィルの胸に触れて、ロジェは数秒、そのままでいた。開きかけた脣をいったん閉じて、目を伏せ、もう一度、目を上げる。

「あんた、レイプはしたくないって、言ってたね」ロジェは、言った。

「今、おまえにその理由を説明できるほど、頭が元気じゃない」フィルは先回りしてそう言った。表情には、確かに、疲れが見える。自分が、レイプまがいのことをさせてしまったせいだろう。ロジェはそう思った。そう思うと、胸の底に、温もった水がどんどん溜まってくるような、不思議な心地よさが湧いてくる。

「……うん。いいんだ、理由なんて。聞いても仕方がないし、興味もない」ロジェは、フィルの肩口に、額を寄せた。「ただ、謝る切欠っていうか……弾みを、つけたかっただけだから。……ああ、これも、甘えかな……」

「謝るのにそんな面倒な手続きが要るとすれば、まぁ、甘ったれかもな」フィルは薄く笑う。その広い背に、ロジェは両腕をまわした。

「一番嫌なことをさせて、ごめん」

 フィルは、ロジェの後頸に手を添えて、小さな顔を覗きこんだ。微かに眉を寄せた、生真面目な表情に、鼻血を拭った痕が乗っている。

「酷い顔だ」フィルは、ふっと吹き出した。ベッドから立ち上がり、水で濡らしたタオルを持ってきて、血に汚れたロジェの顔を、きれいに拭いてやった。

 ロジェは、その間ずっと、フィルを見つめていた。目の前の男を、ただ、見つめたがっている、自分の両目の欲望に、気づく。それはしかし、肉欲に直結するものではなかった。どうやって殺してやろうかという、獰猛な楽しみのための、位置確認でもない。

「ねぇ……、今度こそ、本当の本当に、もう、平気だからさ、次はいつ、抱いてくれる?」ロジェは、フィルの空いている方の手に、自分の指を絡めて、言った。

「おまえが、俺を好きになったらな」フィルはその手から逃れると、汚れたタオルを片手に、適当な口調でそう言って立ち上がる。洗面所に向かうその後姿を、ロジェは、ふらつきながら追った。

「もう好きだよ。大好き。俺の記憶の中に、あんたみたいな人、いないもの」追いついた背中にしがみつく。立ち止まってくれたフィルが、微かに笑ったのが、背中にくっつけた頬から、伝わってきた。

「そうやって比べられるような気持ちじゃ、まだまだ先だな」

「じゃああんたは、そのくらい、俺を好きなの?」

「またあんなこと言いやがる」

「だって、信じられない。俺、ずっと、悪いことしかしてこなかったよ。なのにどうして、あんたみたいな人に会えるの」ロジェは、フィルの後頸を見上げて、言った。「神様って、阿呆だな」

「そりゃそうさ。この世界の神は《毒蛇》だからな」フィルは愉快そうに笑って、体ごと、ロジェを振り返る。

「言えてる」

 大きく笑って、ロジェは、フィルに抱きついた。頬で感じる熱い拍動は、自分のものか、フィルのものか。どちらでも、同じことだ。

 だって、俺の心臓は、フィルの心臓。

 数センチ先で動き続ける、違う筋肉と骨に守られたもう一つの心臓も、俺のフィルの心臓だ。


(了)

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