ママの雪だるま
「おはようございます。起きてください、ヴィルゴ。もう昼です」「……文句ならパパに言ってよぉライブラリー君……」
ヴィルゴは、羽根のふとんの中から、のっそりと首を突き出した。開かない目で思いっきり眉を集めている。これがおそらく、ヴィルゴの最も不細工な顔だ。つまり、世界一美しいしかめっ面を自分は今見ているわけだ。ライブラは思いながら、「雪ですよ、外。積もってます」と言い置いて、薄い帳を捲って、寝台から離れた。居間へ移動して、白いクロスを引いたテーブルの上に、音を立てずに食事の皿を並べていく。
「……本当だ、白い。白いなぁ……」
その声に、ライブラは寝室の方へ視線を遣ったが、ヴィルゴは窓を見るどころか、まだ寝台の上でぐずぐずして丸まっているだけだった。うぅん、白い。白いね。白い白い。寝言のように低く呟きながら、しばらくふとんに潜ったり出たりを繰り返していたが、やがて唐突に、がばりと体を起こす。彼は寝台を抜け出すと、一糸まとわぬ姿で、寝室の出窓の前に立った。上体を傾けて、窓に額を寄せる。一面の雪に閉ざされた、眼下に広がるプライベートヤードは、午の日に真上から照らされて、痛いほどの白さで輝いていた。
「ねぇ……。ここから飛び降りたら、楽しそうだよねぇ……」
「一応言っておきますが、そんなことしたらたぶん死にますからね」ライブラは、ヴィルゴの肩に新しいガウンを羽織らせた。袖を通しながらも、ヴィルゴの視線は窓の外の銀世界から離れない。
「外に出たいよ、ライブラリー君。俺はきみがここに来るよりずっと前から、ボスと、ボスがたまに連れてくる変態の顔しか見てないんだ。いい加減飽きるよ」
「ジーグラ様のお連れになる方は皆、やんごとなき方ばかりですよ」
ヴィルゴは鼻に皺を寄せて、ライブラを振り返る。「やんごとなき変態ばかりだ。きみにも分けてあげたい」
「本当に分けていただけるなら喜びますけどね、わたくしは」涼しい顔でライブラは返した。「ああ、ライブラリー君も変態だったか……」
「それはもう。さ、食卓へどうぞ。朝食兼昼食の準備ができています」
「ライブラリー君も一緒に食べてくれる?」
「そのつもりでいたのですが、やんごとなき仕事が舞い込みまして。申し訳ありませんが、わたくしはこれで下がらせていただきます。一時間ほど後にまた食器を下げに参りますから」
「やんごとなき、ねぇ……。俺の世話はやんごとなくない仕事ってわけなのかしらねぇ……」
「次こそは必ずご一緒しますから」
「そのせりふ聞き飽きた」席に着いたヴィルゴは、シッシと相手を追い払う仕草をしてみせた。ライブラは困ったような笑みを浮かべて一礼し、退室する。
グレープフルーツのフレッシュジュース、ヨーグルトのトッピングにはシリアルと数種のベリー、きのこのオムレツ、サーモンとアスパラガスのサラダ、そしてブレッドバスケットには、クロワッサンとバゲットとブリオッシュ。穀物と果物がぎっしり詰まったパンもある。朝食兼昼食、と、わざわざ厭味に言っていたわりに、テーブルに並べられているのは、いつもの朝食と変化がなかった。ヴィルゴの好物ばかりを、ヴィルゴの好む分量で配置した、ヴィルゴのためだけの朝食だ。
ヴィルゴが、このジーグラの私邸で暮らし始めてから、もう、九年という歳月が経っていた。これは今でも、ジーグラと、ジーグラの連れてくる変態中将、そしてヴィルゴ本人しか知らない、大きな秘密の一つである。ヴィルゴは、サーモンやバゲットの中に、その長い月日がしみ入っているとでもいうような、悔しげな顔で、朝食を噛みしめ、平らげた。
九年間、彼はここで、静止していた。否、鳴かず飛ばずの状態だった。彼はこのジーグラの静止した王国で、己の若い肉体と殺しの技術とを、ひたすら磨きこみ、研ぎすまして、力を蓄えてきたのだ。
けれどもう、いいだろう。
ヴィルゴは口もとを布巾で拭って、席を立つ。窓を大きく開いて、体を乗り出し、晴れ渡る天を仰いだ。オパールの輝きを持つヴィルゴの青い瞳が、空を吸い込んで、深く煌めいた。
◎
きっちり1時間後、ライブラが再び部屋へやってきた。てのひらに、小さな雪だるまを抱えている。
「やんごとなき仕事って、まさかこれ作ってたわけじゃないよね」
「後半の十分は、これを作っておりましたよ」
「……ねぇ。ライブラリー君って、なんだか素敵な母親みたい」ヴィルゴは、受け取った雪だるまを空いた皿の上に置いて、冷たいその腹を撫でた。
「なんです、素敵な母親って」
「例えば、大雪が降った日に病床にあって外に出られない、小さな子どもがいるとするでしょ。そしたら母親は、こういう雪だるまを作って、その子の枕元に持って来てくれるのが、本当なんだ」
ライブラの作った雪だるまは、目は冬青の実で、鼻は木の枝を挿して、口は粒状のまるいチョコレート菓子で、描かれていた。何かに愕いたような雪だるまの顔と、ヴィルゴのうるわしき白磁のかんばせが、見つめあうことなく、向かい合っている。
「俺の母はね、ライブラリー君。もし俺がそういう状況にあったなら、外の様子が見えないよう部屋のカーテンをきっちりと引いて、その間に業者を呼んで窓の外の積雪を残らず片づけさせるような、そういう人だった」
「変わった方ですね」
ライブラは、できるだけ感情を込めずに言った。
「ねぇ、ライブラリー君。このピンクのまるいのって、いったい何なの?」ヴィルゴの指は、雪だるまの口の部分をさしている。
「チョコレート菓子ですよ。我々庶民の食べる、駄菓子です」
「チョコレートなの、これ。食べてみていい?」
「それなら、こっちをどうぞ」ライブラは背広の内ポケットから、口の開いた小袋を取り出す。使っていない小皿の上に、色とりどりの、まるいチョコレート菓子があけられた。水色、赤、オレンジ、ピンク、黄色、緑、チョコレートらしい焦茶色もある。
「きれいなものだなぁ。食べるのもったいないよ」ヴィルゴはそう言って、一粒も食べずに、ライブラの雪だるまの周りを、チョコレートの粒で飾りはじめた。長い爪の先で、一粒ずつ上手く摘んで並べている。赤、オレンジ、オレンジ、水色、赤、緑。きれいだ、と言ったくせに、彩り良く並べようという気はないようだ。
「ねぇ、ライブラリー君」
「なんですか、ヴィルゴ」
「俺が人殺しをたくさんするようになっても、ライブラリー君は俺の素敵な母親でいてくれる?」
「わたくしは今でもあなたの素敵な母親であるつもりはないのですが……」
「でも俺にとっての現実はそうなんだ」
「それなら、わたくしの答えはこうです。ヴィルゴ、わたくしはいつも、あなたのことを心配しています。それが現在、わたくしに与えられている職務だからです。そしてわたくしは、この職務を、精一杯、務めているつもりです」
「ライブラリー君。俺は今日から、きみのこと、おかあさんって呼ぶことにする」
「死んでも返事しませんから」ライブラは笑って、見上げてくるヴィルゴの瞳と同じ、水色の一粒を口に入れた。