02

青春の闘士とナイフ

 先ほど出たときと何も変わらない、薄暗い階段を駆け上がり、廊下を進みながら、息を整える。

 ティトラカワンの寝所の扉を叩くと、「何です?」とすぐに声が返ってきた。イツトリはそのまま扉を開けて、中に入る。電気は点いていないが、窓のすぐ外にある街路灯のせいで、照度の低い灯りの点った階段や廊下より、室内の方が明るいくらいだった。

「何か報告でも?」

 ティトラカワンは、いつもの定位置から、振り返らずに言った。角ばった低いテーブルを挟んで、暖炉と向かい合った、ひとり掛けのソファ。

「……珍しいですね、」イツトリは、その向かって右手側、テーブルの長い辺に沿って置かれた椅子のひとつに腰を落ち着けながら、言った。もちろん、ティトラカワンに一番近い椅子だ。

「何がです」イツトリの無作法にも、その問いかけにも、興味がないことを示すように、ティトラカワンは目を伏せたままで言う。

「酒を飲まれてる姿を、あまり見た覚えがないので」

「バカですね」ティトラカワンは、手にしていたグラスに口をつけて、テーブルに戻した。中身は、机上にあるボトルから、ブランデーだと判った。氷の具合からみて、もう2杯目か、3杯目くらいだろう。「珍しいのはこんな夜中に押しかけてきた、あなたの行動の方です」

 ティトラカワンは脚を組む。ガウンの裾が乱れて、膝小僧の尖った形が、青白い街路灯の明かりの中に浮かび上がる。

「……ティトラカワン、」欲情に干上がりそうな喉を、飲み込んだ少ない唾で潤して、イツトリは言葉を続けた。「何か、……何か私と、勝負をして、下さいませんか、」

 ティトラカワンは眉を顰めて、そこでようやく、イツトリの方に視線を向けた。

 切羽詰った、痛みを堪えるような部下の表情に、ティトラカワンの瞳が、ほんの一瞬間、大きくなる。すぐにその目を伏せ、彼はまた、グラスを持った。残り少なくなっていた酒を飲み干す。そうして、口を開いた。

「勝負にはもう、負けました」

「は、……?」思わぬ言葉だった。イツトリが目を瞬かせている間に、ティトラカワンは自ら次の酒を注ぎ、新しい氷も足した。

「あなたは、戻ってはこないと思っていた」そう言って、グラスを傾ける。一気に、半分ほどが減った。

「それは……、私がここへ戻ってくることを、いくらか期待していた、ということですか?」

 ティトラカワンは息を吐いた。ぱらりと解けて、左目にかかった前髪を、耳にかける。「いいえ。戻ってこないと思っていた、と言ったでしょう。その言葉のまま、それだけの意味です」

「それが、勝負に負けた……?」

「運命との勝負です。私に起こるだろう、未来との」

 イツトリは、浅く唾をのむ。「……あなたは、それに負け続けたいと、思っていらっしゃるのでは?」

「そこまで貪欲ではありません」

「では、今に限定すれば?」

 ティトラカワンは、凝と、イツトリを見た。酒のせいか、映りこんだ灯火のせいか、いつもより潤んでいるように見える、大きな、黒い瞳。

「あなたは、私がここへ戻らないだろうと思っていた。私は、戻ってきました。その勝負については?」イツトリは質問を重ねる。

「……飲みますか?」ティトラカワンは、自分の飲みかけのグラスを持ち上げて、訊いた。

「いただきます」イツトリはティトラカワンを見つめ返して、そう答えた。

 ティトラカワンは、イツトリの目を見つめたままで、持ち上げたグラスを、自分の脣に運んだ。残りのブランデーを、残らず呷る。

 イツトリの左手がそのとき、ティトラカワンのグラスを持った右手を捕らえた。指の又から忍び込み、絡みつき、取り落とされたグラスは一度、ティトラカワンのふとももの辺りに当たって、床に転がった。

「……んぅ、……う、っ…………」イツトリは、酒を含んで濡れたティトラカワンの脣に、自分の脣を押し当てた。主の閉じられた脣の間に、舌を滑り込ませる。ブランデーの強い香気と、初めて感じる、ティトラカワンの脣の柔らかさに、イツトリは頭の芯が甘くぶれるのを、感じた。

 薄い上脣を啄ばみ、下脣の膨らみを吸う。絡んだ、互いに手袋を嵌めていない手と手は、昂奮に湿っている。けれどティトラカワンは、その手を振り解こうとはしなかった。

「ティトラカワン……」口付けの合間に呼ぶと、閉じられていた眼前の瞼が持ち上がる。

「あなたは、あなたの神に、こんな真似を……?」そう言いながらティトラカワンは、空いている方の手で、イツトリの、すでに衣服の下で兆している部分を握りこんだ。

「……っ、……ッマ、マオ……ッ」

 引き攣ったようなその声を聞いて、ティトラカワンは、白い歯をこぼした。イツトリはその機を逃さず、再び脣を重ねる。舌でその歯をなぞって、半端な位置に浮いた舌に、自分のそれを吸い付かせ、甘い粘膜を思うさま味わう。

 これまで決して許されなかった禁忌を、一度に破る、恐怖と昂奮。それはティトラカワンが続ける、衣を挟んでの手での刺激によって、じょじょに、後者の方へ、大きく傾いてゆく。

 もう、ティトラカワンの口の中で知らないところはないというくらいの、腰が抜けそうに濃密な口付けが、どちらからともなく解ける。上がった息の陰で、ティトラカワンはきつく眉を寄せて、呟いた。

「……あぁ、……気持ちが悪い……」そう言いながら、涎の伝う顎を拭いもせずに、イツトリを緩く追い立てる手の動きも、まだ止めない。

「マオ、手を、もう……っ、」

「何です?」

「だから、手を……あぁ、こんな、……初めて、で……」

「ですから、何が、」

「ああ、もう、」唸るような声を出して、イツトリは、自分を追い込もうとする主の手をついに捕まえた。逆の手でベルトの留め金を外し、チャックを下ろす。

 今まで、どうにか押し込められていた、彼の固く勃起した性器が、細い糸を引いて姿を現した。イツトリは、血管をのたうたせて反り返るそれを宥めるように、自分の左手で握る。

「あなたのものじゃ、ないみたいですね」ティトラカワンは平然とそう言った。再び自分の手をイツトリの手の下に滑り込ませ、今度は直に、部下のものに触れる。

「そん、……だめ、マオ、駄目です、だ……ッ、」イツトリは腰を引こうとするが、座っているティトラカワンとテーブルの間の、ごく狭い空間に、ティトラカワンの脚を半分跨ぐような格好で立っているために、ろくな逃げを打つことができなかった。

 初めて直に感じる、主のてのひらの、皮膚の感触。高まる波をやり過ごそうと、イツトリは脣をきつく噛んだ。すぐに血の味が口の中に満ちてくる。

 ティトラカワンは、血のにおいが嫌いだ。しまった、とイツトリが後悔するより早く、もうそのにおいを嗅ぎつけたのか、ティトラカワンの険しい目が上向いた。

「本当にあなたは、バカですね、」ティトラカワンは伸ばした左手で、イツトリの食いしばった歯を開かせた。そのまま、舌を押さえつけるようにして、親指を捩じ込んでくる。

「……あぁお、……っ」イツトリの声はくぐもった呻きにしかならない。

「我慢しないで、出せばいいでしょう」

「お、……ッ、」大きく扱かれ、極まりそうになったのを、下腹に力を入れることだけでどうにか回避して、イツトリは首を振る。

「強情ですね」ティトラカワンは相手が喋れるように、口の中に突っ込んだ親指を、上あごの裏にくっつけるように浮かせて、舌を自由にしてやった。「私の手に出せばいいと言っているんです」

「……あ……あなたを、……あなたの部屋を、……汚してしまう、」イツトリの答えは簡単だった。喋っている間も、ティトラカワンの右手によってもたらされる快楽を、必死の形相で堪えている。

「事後の清掃はあなたの仕事でしょう」

「……しかし、」

「寝台まで、持ちそうもありませんね、」ティトラカワンはそう言って、イツトリの口から指を抜いた。部下の涎と血にまみれたその手で、自分の脇腹を掻き毟るようにして震えている、イツトリの手を取る。

 ティトラカワンはソファから立ち上がると、左手の長ソファではなく、広いテーブルの上に仰臥した。イツトリの手は離さぬまま。引っ張られたイツトリは、主の上に覆い被さる体勢になる。

「少し、解してから、来てください」ティトラカワンはそう言って、立てた膝を緩めた。ガウンの裾が大きく捲れて、なめらかな脚が、付け根近くまで露になる。愕いた顔をしたイツトリに、ティトラカワンは普段の調子で続けた。「私の従順な崇拝者である若者に、私を犯すなどという不敬な行いができるとでも……?」

「…………嘘……でしょう、……そんな、」

「嘘?」ティトラカワンは眉を上げる。「そんな下らぬ嘘をつく理由がありますか」

「そんな、……そんな、本当、に……?」

「あなたくらいのものですよ。毎回、きっちり最後まで私を犯していくような、不心得者の部下は」

 耳が、熱い。

 イツトリは、耳の縁どころか、耳の穴の奥の方まで、一気に熱くなったのを感じた。下腹部の、痺れるような甘い痛みも強くなる。

「……ゴム、が、」イツトリの口は、頭で考えずにそう言った。暴発しそうな昂奮を、声を発することで散らそうとしたのかもしれない。ティトラカワンの顔の挟んで両手をつき、顔を近づける。

「今さら、それが何の役に立ちます?」脣が重なる直前に、ティトラカワンは忌々しげにこぼした。「こんなに私を汚しておいて」

 イツトリは脣でティトラカワンの体を下に辿る。ガウンの襟を大きく左右に開いて、露出した、尖った胸の先に吸い付いた。色づいた全体を舌で揉み、脣で揺する。

「……ぁあ、……あ……あ……あ……」イツトリの後頭にかかっているティトラカワンの手に力が入り、腰が浮き沈みしはじめる。立ち上がり切って敏感になった主の乳首を、イツトリは軽く、歯で挟んだ。その先の先だけを、尖らせた舌で細かく、執拗に翻弄する。

「アァ……っ、あッ、……あぁ、も、……あぁ、あ……ぁ、」ティトラカワンは内腿で、圧し掛かる男の胴を、ぎゅうっと挟んだ。浮いた腰が捩れ、イツトリの腹の辺りに、はっきりと、固い感触が押し当てられている。イツトリはそこに手を伸ばした。もちろんここも、直に触れるのは初めてだ。

 ガウンの腰紐を解いて、前を完全に肌蹴させる。イツトリは熱い息を吐いて、こめかみを伝う汗を拭った。跪くように、主の上向いた形に手を添え、脣で触れた。音を立てて先を吸ってから、喉を開いて、根元まで迎え入れる。

「ヒッ……!」ティトラカワンの体がびくりと跳ねる。

 イツトリは、頬張ったいとおしいものを、大事に、丹念に、容赦なく、しゃぶり尽くした。口の中に出された少量の精と、唾液の混じったものを自分のてのひらに吐き出し、それでもってティトラカワンの入口の熱い襞を、解しはじめる。

「あぁ……、いぁ、あぁ……、あぁあ……」

 その声も、テーブルの表面を何度も引っ掻く爪も、きつく瞑った目尻から涙をこぼす赤い顔も、指を締め付けてくる感触までもが、あまりに甘美で、あまりに可愛らしく、その頃にはイツトリは、きつく自分の手で自分を戒めていないといけないような有様だった。

「大丈夫、ですか、」イツトリの問いに、ティトラカワンはごく薄くだけ瞼を持ち上げた。

「ええ」きちんと返事をして、頷く。

 間髪を入れず、イツトリは熱く充血した切先を、潤んだ桃廉石色の襞に押し当てた。

「んぁ、あ……ッ!」

「……ッ、……」イツトリは喉で声を殺して、きつい入口を抜け、みにくく怒張した自分の欲望を、主の体の中にすっかり隠してしまう。

「あぁ……っ、……あぁ、も、……ッ、かた……ぃ……」泣き出しそうな声だった。ティトラカワンがそんな喘ぎ方をしたのも、行為の最中に、自分の中にあるイツトリのものを形容してみせたのも、初めてのことだった。

 全身の毛が立ちあがるような昂奮に、血がさんざめく。イツトリは派手に喉を鳴らせて、再び暴発の危機を抑えこんだ。

「……ッ、もう、……なに、を、……っ」身を捩じらせ、息を浅くしたティトラカワンが、しゃくるように腰を蠢かせる。「はやく、動いて、……うごきなさ、はやく……!」

「マオ……!」イツトリは吼え、ティトラカワンの片脚を肩に担ぐと、ぎりぎりまで引いた腰を勢いよく打ち付けた。ティトラカワンは目をいっぱいに見開き、緩んで閉じられなくなった口から涎を散らして、体の内に満ちては引く、強烈な抜き差しに身を委ねる。

 皮膚がぶつかり、粘膜が擦れあい、空気が潰れる音が、それから長い間、続いた。重いテーブルは時折悲鳴を上げて、暖炉の方へ少しずつ近づき、ティトラカワンの喘ぎは、ほとんど掠れた息づかいになっている。

 イツトリはもう何度、主の体の中で射精したか、数えてすらいなかった。こんな夜はこれから先、もう二度とないかもしれない。そう思うと、駄目だと思うのに、疲れ果てた主の体から出て行く決心がなかなかつけられない。

「…………もう、……終わりにしてください……」いよいよ、ティトラカワンが、その言葉を口にした。

 イツトリは、当然ながらその命令に従おうとして、だが、ほんの半秒ほどだけ、逡巡した。それを敏感に感じ取ってか、ティトラカワンの指先が、ようやく抜かれはじめたイツトリのペニスに触れる。まるで、前言を撤回して、引き止めるように。

「ティトラカワン……?」イツトリは顔を上げて、主を窺う。

「私が湯をつかっている間に、ここを元通りにしておいてください」そう言ってから、息を詰め、ティトラカワンは自分で腰を引いて、部下との繋がりを解いた。

「畏まりました」イツトリは頭を下げる。

「ここがすっかり何もなかったことになっていたら、私も、今夜のことは忘れます。あなたも、そうして下さい」

「は……、はい、そのように、致します」

 テーブルの上に身を起こしたティトラカワンは、乱れた黒髪をかき上げた。捻くれてテーブルの端に引っかかっているガウンを手繰り寄せ、股を拭うと、低く呻いて立ち上がる。裸のまま、彼は湯殿の方へ、だるそうな足取りで歩いていった。

 イツトリは部屋の電気を点けると、細心の注意を払って、大急ぎで後始末をした。テーブルを中心にあちこちに散った汚れをふき取り、染みを抜き、ずれた家具の位置を戻して、換気をする。窓の外は、すでに青く明けはじめていて、すぐそこにある街路灯の白色も、夜中に比べるとまろやかに褪せて見えた。

 シャワーの音が途切れる前に、何とか掃除を終えたイツトリは、部屋の電気を落とした。ティトラカワンが戻る前に、退出していなければならない。イツトリは洗濯物を抱えて、部屋の扉の前に立った。そこから首をめぐらせて、すっかり何もなかった顔の、整った応接間を確認する。

 イツトリはそのとき、微かな違和感に気づいた。奇麗に拭いたはずのテーブルの端に、外の灯を受けてちらりと光る短い筋が、ひとつ、ふたつ……、すぐにその正体に気づいたイツトリは、数えるのをやめて、そのまま部屋を出た。

 どの道、今からあれを消そうとしても、間に合わない。イツトリの脣に、じわりと、笑みが滲む。

 仄青い薄闇の中、ティトラカワンのつけた小さな爪の痕だけが、ひっそりと、消されたふたりの夜の熱を、蓄えている。


(了)


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